『ケカリトメネ修道院規約』 第80条 試訳(保護者・追加規定)

 前回予告した通り、今回はアンナ・コムネナが母エイレーネーの死後ケカリトメネ修道院の保護者に就任することが定められている第80条を読みます。解説に割く労力はもう少し減らしてもよいと思っているのですが、締め切りなどがない分、疑問や理解が不十分な点をそのまま文章にしたり、あるいは逆に削ぎ落としたりするような諦めがつきづらいのが難しいところです。

目次

第80条について

 第80条は、第79条と並んで当初の78箇条に対して後から追加された規定で、内容は前回の第3条と同様、保護者の選任と権利に関するものです*1。第3条では、エイレーネー死後の修道院の保護者には娘のエウドキアが指名されるとともに、もしエウドキアが先に死去した際の選任については、追加規定もしくは遺言によってエイレーネーが決定するということが定められていました。しかし、このエウドキアはその後実際に早世してしまったため、以上の内容に沿って第80条が改めて制定されたものと考えられます。実際、第80条の文中では第3条のことが明確に言及されています。

 第3条で保護者に指名されているのがエウドキアだけであったのに対し、第80条では、より詳しい保護者職の伝承の順位が示されています。具体的な順位は、エイレーネーの娘のアンナ→アンナの妹マリアとアンナの娘エイレーネーの両名→アンナの直系子孫の女性→アンナの直系子孫の男性の妻→その他一族の女性のうち修道院長が選任した者、とされており、就任できる人物は女性に限定されています。

第79条との違い

 興味深いことに、以上の順位は、第79条でエイレーネーが定めていた、皇族屋敷に居住する権利の伝承順位とは異なっています。第79条では、権利の伝承について、アンナ→アンナの娘エイレーネー→アンナの子孫のうち最年長者→修道院、という原則が設けられており、マリアの名前は出てきません。また、保護者の候補者を女性に限定する第80条に対し、第79条では、屋敷の権利者は男女どちらでもよいことが明記されていました。加えて、第79条の伝承原則はあくまで権利者が遺言による指定をしなかった際に適用されるもので、彼らは遺言によって自身の子孫あるいはその配偶者を指名することで、その人物に権利を相続させることが許されていました*2。この歴代権利者の遺言による後継指名は、第80条には全く登場しません。

 この違いにはどのような意味があるのでしょうか。推測や感想を上回る内容のある答えを示す材料を訳者は持っていませんが、ひとまず考えたことを書き留めておきたいと思います(この段落は読み飛ばしても差し支えありません)。前回第3条を読んだ際、ビザンツにおける俗人による修道院創設の動機のひとつとして、アッタレイアテスの例にみられるような安定した家産の形成という関心があったことに触れました。第80条と比較したとき、第79条の措置は、遺言による継承を認めるなど、屋敷とそれに伴う権利を家産に近い形で扱っているものと考えることができそうです。この措置が修道院の保護者職には適用されないということは、修道院財産の事実上の家産としての利用と修道院に対するある種の指導的立場がエイレーネーによって(少なくとも表面上)別個のものとして扱われていたことを示しているのではないでしょうか。こうした分離の背景には、やはりこの時期にカリスティキアを中心として、俗人の修道院に対して持っている利権が問題視されていたことがあるのではないかと思いますが、この問題に対して権限の分離がどのような意味を持ちうるのかに関しては、今のところ考えがまとめられていません。この権利継承原則の差異について研究者が論じた記述も、訳者が見た範囲では見つけられなかったため、読者の方で参考になる情報や考えをお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひ教えていただきたいと思います。

アンナ・コムネナにとってのケカリトメネ修道院

 行き詰まった疑問はさておき、アンナに関していえば、いずれにしても屋敷への居住と保護者の地位の双方が保障されていたことははっきりしています。それでは、アンナにとってこれらの権利はどのような意味を持っていたのでしょうか。

 近年アンナ・コムネナを論じたモノグラフを著したネヴィルは、帝位への野心を絶たれて修道院で軟禁状態に置かれ、孤独の中で怨念に身を焦がしながら暮らす暗い後半生という、近代の歴史家たちによってしばしば描かれてきたアンナのイメージを批判しつつ、まさにこの修道院との関係こそが、アンナが知的活動を比較的自由に行うことを後押しした可能性を提示しています。

 ネヴィルによれば、修道院とのつながりは、アンナが敬虔さと謙虚さを備えた、いわば「立派な女性」であるという印象を同時代の人々に与えました。そのことと引き換えのようにしてアンナは、男性の文人たちとの交流や、古来男性の領域であった歴史記述への従事といった、当時女性にとってふさわしくないと考えられていた活動に進出する余地を広げることができたのではないかと同氏は指摘します。また、修道院との近さからもたらされる、性的な事柄とは無縁なイメージは、彼女が夫ニケフォロス・ブリュエンニオス以外の男性の文人と不純な疑惑を持たれることなく親交を結ぶことを助けました。当然、修道院の屋敷そのものが、そうした活動を行うのに格好の場所でもありました*3

 ネヴィルはまた、アンナの夫ニケフォロス・ブリュエンニオスの存在を考慮に入れ、修道院がアンナにとっての唯一の居所であったわけではない可能性を指摘しています。ケカリトメネ修道院の規約が書かれた際にはニケフォロスは存命だったのに対し*4、規約の第79条には、既に屋敷にアンナの暮らすスペースがあったことを示す記述があります*5。このことは、ニケフォロスの生前に既にアンナが彼と離れて修道院に暮らしていたことを意味しているのでしょうか。ネヴィルは、アンナたちと親交のあった文人の一人、プロドロモスによるニケフォロスへの追悼演説の中に、アンナとニケフォロスが親密な夫婦であり続けたという記述があることに注目します。そのうえで、仮に彼ら夫婦が現実には通常と異なる形で別居していたとすれば、この内容はアンナに対して礼を欠いたものとなったであろうことから、アンナは常に修道院の屋敷で暮らしていたわけではなく、自身が望む時に修道院に滞在することができたのではないかと推定しています*6

 これらの議論によってネヴィルが描き出しているのは、修道院に閉じ込められるどころか、俗人でありながら修道院と深く関わっている両義的な立場を主体的に活用し、当時のビザンツ社会にあった性別による障壁を多少なりとも越えて知的活動を楽しむアンナの姿であるといえるでしょう。修道院の屋敷の他にアンナの居所があった可能性については個人的にはプロドロモスの記述を確認しなければ判断できませんが、少なくともケカリトメネ修道院はアンナにとって、自身の世界を外へと広げてくれる場所であったということはできるかもしれません。

立ち入り制限とその例外

 アンナの行動が物理的、精神的に外部に開かれていた一方で、彼女と修道女たちとの間には隔たりが設けられていました。このことは、これまでここで読んできた条文からも明らかです。第79条では、皇族の屋敷の居住権は男性も相続しうることが定められており、屋敷が男子禁制の場所とは異なる扱いをされていたことがわかります*7。また第74条では、修道生活の場は屋敷からも覗き見られてはならないことが定められています*8

 今回読む第80条も、保護者の修道院内への立ち入りに制限を加えています。皇族の屋敷と修道院の禁域は壁によって隔てられ、この壁に設けられた扉は、内側からは修道院長、外側からは保護者によってそれぞれ施錠されることになっていました。保護者は聖堂での礼拝に参加する際以外、そこから内部に立ち入ることはできませんでした。

 ただし、エイレーネーの近親者に対しては例外的な優遇がみられます。まず、エイレーネーの娘のアンナとマリア、そして同名の孫娘のエイレーネーの三名に関しては、礼拝だけではなく、修道女たちの食事にも参加することができました。また、修道院は男子禁制でしたが、エイレーネーの息子、娘婿、孫息子に関しては、保護者に伴われて立ち入り、修道院長と面会することが許されています。例えば訪問者について定めた第17条では、修道女の親族の男性が彼女との面会に訪れた場合は、門から中へ立ち入ることなく、修道女の方が出てきて用件を済ませることになっているため*9、これも家族への特別な扱いということができます。

 彼らが修道院に立ち入る理由としては、例えば修道女となった親族や、ケカリトメネに埋葬されて眠っている家族を訪問することが考えられます。ガラタリオトゥは、このように一族の絆を形作ることも、ビザンツの有力者による修道院建設の動機の一つとして挙げています*10。ケカリトメネの場合も、第4条で見た通り、エイレーネーの子孫が修道女となる場合には豪華な食事や侍女を利用できるなどの特別な扱いが用意されていることからもわかるように、修道院自体が屋敷と合わせて一族の生前からの居所としての役割を与えられていました。第80条に見られる例外的な立ち入りの許可も、一族の間の交流に対するエイレーネーの特別な配慮と考えることができます。序文でのエウドキアの死に対する簡潔な言及も含め、第80条はエイレーネーによる家族への思いやりをところどころに感じ取ることのできる条文といってもいいかもしれません。

訳文を読む上での注意点

 底本として、ゴティエによる校訂を使用し、適宜英訳を参照しています。

 また、訳文の段落分けは訳者によるもので、訳文の作成にあたって訳者が補った単語は〔〕で表示しています。構文・語義の解釈に特に不安のある部分は青字で示し、原語を付記しています。

『ケカリトメネ修道院規約』第80条 試訳(底本142-147頁、英訳709-710頁)

「当修道院の管理者職(ἐφορεία)〔=保護者職〕を有するべき者たちについて」

 当修道院を保護するとともに、本規約において定められたことがいかなる点においても違反なく守られるべく努めるよう、何者かを私が任命するということは、不可避のことであった。それゆえ実際私は、当修道院の保護を課せられた者たちに関する条項〔=第3条〕において、我が愛しき娘にしてポルフュロゲネトスのエウドキア殿が、当院を管理し、当院に対して害をなそうと試みる者たちから擁護し、私の示した本規約において定められたことが違反なく守られるよう努めることを定めた。ところが彼女は、先に述べたとおり*11、私の罪ゆえに、現世での生から旅立ってしまった。

 私は以下のように定める。すなわち、私の現世での生からの離別の後は、当修道院の管理者職を、我が最愛のポルフュロゲネトスにしてカイサリッサのアンナ殿が有し、そして彼女の逝去後は、当修道院の管理者職を、我が愛するポルフュロゲネトスにして娘のマリア殿が、我が愛する孫娘にして、ポルフュロゲネトスのアンナ殿の娘であるエイレーネー・ドゥーカイナ殿とともに有する。また、彼女たちが現世での生から離別した際には、この管理者職は、ポルフュロゲネトスのアンナ殿の他の娘、あるいは孫娘、曾孫娘以下へと移転する。すなわち私は、彼女の娘、孫娘、曾孫娘以下の者たち、特に、年齢において完全に他の者たちよりも長じている〔=最年長の〕者が、彼女の女性の血統 (ἡ τοῦ θηλέος γένους αὐτῆς σειρά)が存続する限り*12、恩寵に満たされし〔=ケカリトメネ〕生神女修道院を管理することを望んでいるのである。

 そして、たびたび述べているポルフュロゲネトスのアンナ殿から下った女性の血統 (ἡ σειρὰ τοῦ θήλεος γένους τοῦ ἀπὸ τῆς ... κυρᾶς Ἄννης καταγομένου)が絶えた際には、当修道院の保護は、ここに書かれた私の決定により、かのポルフュロゲネトス〔=アンナ〕の子孫のうちの何者かの嫁たちの中で最高齢の者へと移転する。このこともまた、男子の嫁が絶えるまで厳守される。またこのとき、当院を管理するはずの者が、自身の配偶者の死後、第二の婚姻に移らないということが遵守される。仮にその者が先に管理者職に就任してから第二の婚姻に及んだ場合であっても、直ちに彼女は管理者職から除かれ、管理者職は彼女の次に指名されている者へと移転する。この〔嫁の再婚を禁じる〕規定はあらゆる場合に守られなければならないためである。

 いよいよこれらの者たち〔=嫁〕も全て絶えた後は、我々の一族の中で名誉ある女性たちの一人へと〔保護者職が移転する〕。しかし、その者もまた年齢において他の者より長じている者ということではなく、〔保護者となるのは、〕その時々に当修道院で修行している修道女たちと修道院長によって選任された者である。このこともまた、永久に、この世が存続する限り厳守される。

 さて、当修道院には、管理者の権利を有する者は、聖堂での奉仕がある時以外はいかなる時も立ち入ることはなく、また奉仕が終わり次第、必要かつ修道院の維持に寄与する会合がない限り、直ちに彼女は立ち去る。またこの際、二名または三名の女性とともに〔保護者は出入りする〕。

 また、我々の一族の貴人に属する女性、あるいはその他の女性が彼女とともに居合わせた場合は、その者もまた単身で〔保護者と〕ともに修道院に立ち入る。一方、男性は何人たりとも〔修道院に立ち入ることはない〕。というのも、修道生活の場はあらゆる男性に対して立ち入りを禁じられ、宦官に対してさえ常に閉ざされるよう私が命じたためである*13。ただし、私の息子たちと娘婿たち、あるいは孫息子たちのうちで、我々への懐かしさや、修道院にとって必要な事情によって修道生活の場へ立ち入ることを望む者がいた場合は、彼らは修道院の保護者の区域から外部拝廊まで、彼女とともに彼らだけで立ち入ったうえで、奉仕が完了するまで待ち、完了後、修道女たちが宿坊へと立ち去ると、聖堂へ立ち入る。このとき修道院長だけが二名または三名の年長で敬虔な修道女たちとともに残り、彼らは彼女たちと懸案事項を話し合い、そして恩寵に満たされし〔=ケカリトメネ〕生神女〔のイコン〕へ拝跪してから立ち去る。このことを彼らは年に一度か二度、そして生神女の祭日に行う。

 しかし、我が愛する娘たちにしてポルフュロゲネトスのアンナ殿とマリア殿、および我が最愛の孫娘エイレーネー・ドゥーカイナ殿は、いつでも自身の望む時に、全ての神聖な集まりと食事の時間に修道女たちとともに集い、ともに食事をすることが許される。ただし、二名または三名の女性とともに〔保護者は出入りする〕。

 また、皇族の屋敷の区域から当修道院への入口は、内部からは修道院長によって、また外部からは当院の保護者によって施錠される。第3条で保護者について定められていたその他の内容は、全て永久に変更なく守られなければならない。

要旨

・規約遵守の徹底と修道院の保護のため、エウドキアを保護者に任命していたが、彼女が逝去してしまった
【エイレーネー死後の保護者職就任の順位】
 ・アンナ
 ・アンナの妹マリアとアンナの娘エイレーネー
 ・アンナの直系子孫である女性のうち最年長者
 ・アンナの直系子孫である男性の妻のうち最年長者
  ・再婚した場合は権利を失う
 ・一族の女性のうち修道院長が選任した者
【保護者らの修道院への立ち入り】
 ・保護者本人
  ・礼拝の際以外は禁止
   ・修道院の運営に関する会合がない限り即時退出
 ・女性来客は保護者に同伴可
 ・男性は原則立ち入り禁止
  ・エイレーネーの近親者のみ保護者とともに立ち入り可
 ・アンナ、マリア、エイレーネーは礼拝だけでなく食事にも参加できる
・皇族屋敷と修道院を隔てる門は修道院長と保護者によって内外から施錠される

次回予告

 次回は第29条(門番)、第69条(用水)、第73条(建物の改変禁止)のいずれかを読みたいと思っています。あまり一貫性がないようで恐縮なのですが、文献で触れられているために内容を先に読んでいたりするので、一定のペースで更新するにはその方が進めやすいという理由があります。どうか悪しからずお付き合いいただければ幸いです。

参考文献

アンナ・コムニニ(相野洋三訳)『アレクシアス』2019年、悠書館。

Gautier, P.(ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165.
Jordan, R., "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724.

 

Galatariotou, C., "Byzantine Ktetorika Typika: A Comparative Study," Revue des études byzantines 45, 1987, pp. 77-138.

Neville, L., Anna Komnene: The Life and Work of a Medieval Historian, Oxford, 2016.

注釈

*1:追加の時期について、ゴティエは1120年代ではないかとしている(底本14頁。)。追加規定で触れられているエイレーネーの娘エウドキアは、アレクシオス1世の死に立ち会っていることが『アレクシアス』から明らかなため(アンナ・コムニニ(相野洋三訳)『アレクシアス』2019年、悠書館、553頁)、追加は少なくともアレクシオス1世の死後であると思われる。

*2:「エイレーネー殿の死後に、もしその母であるポルフュロゲネトス〔=アンナ〕が遺言とともに死去した場合は、皇族の建物およびその他の建物は、彼女の子、孫、あるいは曾孫のうち、男性であれ女性であれ、彼女の選ぶ者へと相続される。」「この権利の伴っている人物が遺言とともにその生から離別する場合は、自身の子や孫以下直系の者たちのうち、自身の望む者へとこれらを相続させることが許される。」

*3:L. Neville, Anna Komnene: The Life and Work of a Medieval Historian, Oxford, 2016 pp. 137-140.

*4:ニケフォロスの死去はエイレーネーよりも後のため。

*5:「私の現世における生からの離別の後は、我が最愛のポルフュロゲネトスにしてカイサリッサのアンナ殿が、彼女が私の生前においても居住していた部屋のすべて(……)を、〔現在〕私によって占有されているのと同様に、終生妨げられることなく占有する。」

*6:Neville, pp. 136-137.

*7:注2参照。

*8:「私は(……)、いかなる時においても、修道女たちの生活のために割り当てられた区域の中の何かに対して(……)、皇族の住居からであれその他の〔建物〕からであれ(……)、何らかの視線が生じることを抑止し、排除する。」

*9:「その者は外で〔門を〕叩き、院長がそれを知らされると、面会を希望されている修道女が彼女の指示によって門まで行く。」

*10:C. Galatariotou, "Byzantine Ktetorika Typika: A Comparative Study," Revue des études byzantines 45, 1987, pp. 95-98.

*11:エウドキアの死は第79条ですでに言及されている。

*12:「女性の血統」は、σειράが「ひも」を原義として「血統」を指す単語であるため、「女系の血統」と取るべきなのではないかとも考えられる。しかし、「女系」という解釈を裏付ける記述が条文内にないこと、また当時のビザンツで女系と男系の区別がどのような場面でどの程度重要であったか訳者の知識が定かでないことから、この箇所は女系・男系を問わないアンナの女性の直系子孫に関するものと考え、訳もやや不自然な日本語ではあるが「女性の血統」とする。

*13:宦官については明確に対応する条文を訳者はまだ見つけられていない。

『ケカリトメネ修道院規約』 第3条 試訳(保護者)

 長い間労働などに気力を取られていましたが、アンナ・コムネナへの興味が再燃する心境の変化を受け、更新を再開します。今度は門番に関する規定を読みたいと前回は言っていたのですが、予定を変更してアンナとケカリトメネ修道院の関係に関わる第3条を読みます。ケカリトメネ修道院についてのおさらいは過去記事をご参照ください。

目次

第3条について

 第3条は、修道院の保護者の役割について定めた条文です。 ケカリトメネ修道院の規約では、保護者は「antilambanomenē*1」、あるいは「antilēpsis/ephoreiaを有する者*2」、等の表現で呼ばれています。ケカリトメネ修道院の保護者は、修道院長とは別人で、創設者であるエイレーネーの死後、彼女の意向に基づいて代々任命されることになっていました。第3条ではエイレーネー没後の保護者として、当時既にケカリトメネの修道女となっていた娘のエウドキアが指名されていますが、保護者は特に修道女である必要はありませんでした。後にエウドキアがエイレーネーよりも先に亡くなってしまったことを受けて定められた第80条では、修道生活の場とは隔てられた屋敷に居住するアンナ、およびその子孫が代々この職を受け継いでいくことが定められています。

 このように、ビザンツの裕福な俗人によって創設、復興された修道院では、創設者の一族が修道院の運営に代々関わることがありました。例えば、奇しくもアンナと同じく歴史家として知られ、11世紀中頃に官僚として活躍したミカエル・アッタレイアテスは、1077年に、それまでに自身の親族から買い集めた不動産を用いてコンスタンティノープル修道院とライデストス(現在のテキルダー)の救貧施設からなる複合体を設立し、その運営を自身の子孫に託しています。このときアッタレイアテスの起草した設立文書では、施設の運営にあたる子孫たちは、施設に対して比較的強力な権力と利権を与えられています。とりわけ、設立者の直系子孫が救貧施設の「施設長(ptōchotrophos)」として運営にあたっている間は、彼らは施設の所領などから生じる収入から所定の運営上の支出を差し引いた利益の3分の2を獲得することができるとされていました*3修道院規約の英訳史料集の編者の一人であるトマスはこの記述を、「創設者とその相続人たちが私設宗教施設の『余剰』収入の一部を受け取る権利を、ビザンツ史料の中で最も露骨に証言したものである」と評価しています*4。また、アッタレイアテスのケースを分析した大月康弘氏は、11世紀中葉という政情の不安定な時代にあって、慈善施設や修道院のように、皇帝と政治的な対立が生じたとしても容易に介入を受けることのない神聖化された財産という形式が、家産を一体的かつ永続的に管理したい貴族の希望にかなっていた可能性を指摘しています*5。このように、俗人による修道院設立には、自身や子孫のための安定した資産を築く行為という側面もありました。

 しかし、アッタレイアテスの設立文書とケカリトメネ修道院の規約を比較すると、俗人保護者の権限には差異があることに注意する必要があります。前者の場合、先に述べた通りアッタレイアテスの直系子孫は、修道院のものも含めた収益の3分の2を受け取ることができました。他方、ケカリトメネ修道院の保護者は、第3条によれば、修道院の会計について知ることすら許されていません。この背景には、10世紀後半から11世紀にかけて盛んであった、主に俗人が一定の期間修道院や教会施設の経営を行う代わりにそこから収益を獲得する「カリスティキア」という制度をめぐる政府、教会、修道共同体それぞれからの改革や規制の動きが関連しています*6。この動きの中では、俗人が修道院の運営から経済的利益を得ていることが特に問題視されることになりました*7。1077年のアッタレイアテスによる修道院創設と1100年代後半のケカリトメネ修道院建立の時期的な開きは30年ほどですが、トマスは、両者における保護者の権限の差異に触れたうえで、「保護者の権利として許容できる内容をめぐる当時の人々の考え方に対して、改革運動が劇的な変化を及ぼしたことは疑いない」と述べています*8

 以上の差異を踏まえると、ケカリトメネ修道院の建立にあたったエイレーネーが、保護者職から自身の子孫が経済的利益を得ることを実際にどの程度重視していたのかという点について、現段階では訳者にははっきりした考えが持てません。ケカリトメネの規約とアッタレイアテスの設立文書の共通点に注目するガラタリオトゥは、前者の保護者が葡萄畑や浴場を含む修道院の財産の占有権と用益権を有していたと述べていますが*9、ここで同氏が根拠に挙げている箇所は第79条の一部であり、その箇所で触れられているのは同条で問題とされている皇族屋敷をはじめとする部分のことで、修道院財産の全体ではないと思われます。浴場に関しては第79条で指定されている建物に含まれていますが、これらが収益を生む建物として想定されているのかどうかもよくわかりません。むしろ第79条は、確かにエイレーネーの子孫が断絶した後は修道院側が屋敷のある土地を住宅や畑に転用して収入を得ることを求めている一方で、それ以前の段階で居住者がこの土地を居住目的ではなく営利目的で使用することに対しては否定的な条文である印象を訳者は持っています。とはいえ、保護者に強力な権限がなくとも、エイレーネーの子孫たちの居住する屋敷が修道院財産となることで、本来であれば彼らの負担すべき税の一部が免除されうるなど、修道院から彼らが経済的な利益を期待できる要素は実際は十分にあったのかもしれません。また、保護者たちによってこの種の権限に関する規定が現実にどの程度守られたか(あるいは守られることをエイレーネーが想定していたか)についても、もしかすると懐疑的に見る必要があるかもしれません。

 アッタレイアテスの例から修道院創設の経済的な側面に話が及びましたが、当然、ビザンツの人々にとって自身の一族の収入源を確保することだけが修道院を創設する動機だったわけではなく、宗教的な側面も同様に、もしくはそれ以上に重要であったと考えられます。例えば、今回訳したケカリトメネの第3条でも、修道院の保護者の名前が祈りの際に唱えられ、過去帳に記載されるということが明記されています。コムネノス朝の皇族女性の修道院建設について論じたディミトロプルによると、清らかな修道士や修道女たちが、過去帳に名前の記載された創設者とその家族のために将来にわたって祈り続けることも、修道院の建設という敬虔な行いに創設者の富が投じられることや、そこで修道生活を送る人々によって困窮した人々のための慈善活動が行われることと並んで、創設者らの生前の罪が清められ、修道院の奉献を受けたキリストやマリアなどが、最後の審判の際に彼らの救済のためのとりなしを行うことに結びつく行為と考えられていました*10

  最後に、この第3条では、エイレーネーの遺言が規約と同等の効力を持ち、規約の内容が遺言によって上書きされうるということが述べられています。遺言が古代ローマ以来、法的・社会的に確固たる地位を占める制度であったのに対し、修道院の設立文書が多くみられるようになったのは、10世紀以来のことです。この時期に文書化された規約の作成が広く行われるようになった背景には、やはりカリスティキアの広がりがあったと考えられています。ガラタリオトゥは、同制度に基づくものを含めた外部からの権利侵害に対して修道院の独立性を守る必要性が高まったことから、その手段として法廷で示されうる設立文書が用いられたと説明していますが、同氏によれば、実際にこうした設立文書が法廷においてどの程度修道院の権利保護に役立ったかは明らかではありません*11。第3条のこの記述は、修道院の構成員や代々の保護者に対して遺言を規約と同様に尊重し、実施することを求めるものであったといえますが、それと同時に、エイレーネーらの念頭には、逆にこの規約の方も法的に遺言と同等の重みを持つべきであるという主張もあったのかもしれません。

訳文を読む上での注意点

 底本として、ゴティエによる校訂を使用し、適宜英訳を参照しています。

 また、訳文の段落分けは訳者によるもので、訳文の作成にあたって訳者が補った単語は〔〕で表示しています。構文・語義の解釈に特に不安のある部分は青字で示し、原語を付記しています。

『ケカリトメネ修道院規約』第3条 試訳(底本33-35頁、英訳669-670頁)

「当修道院の保護職(ἀντίληψις)に任じられた者たちについて、また、私の遺言によって当修道院に関して定められたことは、本規約と同等の効力を持ち、かつ本規約は永久に改変や歪曲がなされてはならないということについて」

 

 我々両名〔=エイレーネーとアレクシオス1世の夫婦〕の現世からの離別の後も、この恩寵に満たされし〔=ケカリトメネ〕生神女修道院が保護者に事欠かないよう、私が取り計らう必要がある。そうすることにより、〔修道院が〕何の保護や安全によっても守られていないがゆえに、他者の財産を奪う者たちによる略奪が生じるということがないようにするのである。それゆえ私はこれを実行し、最善の措置を考え以下のように望む。すなわち、我が愛しき娘にして緋色の生まれの修道女、エウドキア殿が*12、当院を管理し、扶助し、擁護し、当院に対して悪意ある行動を取る者たちを斥け、また本規約の一部に対して違反がなされるおそれがある際にはこれを防止するのである。なぜなら、彼女は修道女であり、当修道院にとどまり続ける予定のためである。しかし、彼女の来世への離別の後は、本規約において行われる追加を通じて、あるいは遺言の何らかの文書を通じて、私がこの権利を与えた者たちが、当修道院の管理(ἐφορεία)と保護(ἀντίληψις)の職につく*13

 というのも、私が自身の遺言において当修道院とそれに属するあらゆるものに関して定めることについて、私はそれらもまた、私のこの規約に書かれていたも同然に効力を持ち、かつここに定められていることと同様に永久に不変であり続けるよう望んでいるためである。さらに、ここに書かれたことのうちの何かを遺言上で変更することを私が望んだ場合には、私にはそうすることが完全に可能である。またその場合、当修道院のことについて両者〔=規約と遺言〕を通じて私が定めたことは全て、ここに書かれたことの一部が私の遺言によって上述のように〔効力の〕停止を受けている場合を除いて、等しく強い効力を持つのであるから、私のこの規約と私の遺言との間にはいかなる違いも了解されることがない。

 以上の理由により、当修道院を保護することを私に認められた者たちは何人も、院内の何かに権力を及ぼしたり、本規約の一部を改変したり、修道院長を交代させたり、修道女の任命、加入、排除を行ったり、修道院長自身や財産管理人や修道女のうちの何者かに対して、彼らが統括、計画している事柄の何らかの会計報告を課したり、収入や支出を知らせるよう要求することや当修道院から何かを受け取ろうとすることを試みたり、何であれ私物化することや命令下に置くことを試みたりしてはならない。というのも私は、当修道院とそれに属するあらゆるものを本規約の範囲内で管理することを、修道院長と修道女たちに任せているためである。

 私は以下の目的で先述の者たち〔=保護者〕を当修道院に置くのである。すなわち、修道院とそれに属するものを扶助し、管理するとともに、互いに揉め事を起こしている修道女がいれば和解させるということ、また修道院の権利を侵害したり、本規約に定められていることに違反したりしようと望む者たちを寄せつけないということである。彼女たち〔=保護者〕は、当修道院において毎日記念され、死後には聖なる帳面に書き留められるだけで十分である。というのも私は、自身のこの規約が、乱されることも侵害されることもなく、永久に効力を持ち続けることを望んでいるのである。すなわち、もし仮に修道院長や当修道院の保護者によって、より強力な命令や措置が導入され、それによって修道院とこれに属するものがこの上なく大きな利益と非常に強力な地歩を得るようなことがあったとしても、ここに述べられていることや今後述べられるであろうことは何一つ、いかなる方法によっても違反を被ることはなく、いかなる瞬間においても、また何人によっても、変更を受けることがないのである。

要旨

・エイレーネーとアレクシオス1世の死後は保護者を置く
 ・目的は修道院規約の遵守と修道院の権利侵害の防止
 ・初代の保護者はエイレーネーの娘で修道女のエウドキアが務める
  ・エウドキアの死後については、追加条項や遺言で別途定める
  ・エイレーネーの遺言は規約を上書きでき、規約と同等の効力を持つ
・保護者への禁止事項
 ・規約の改変
 ・修道院長の交代
 ・修道女の任命、加入、排除
 ・修道院の会計について知ること
 ・修道院の財産の私物化
 ・修道院の運営への介入
・保護者の役割
 ・修道院の扶助・管理
 ・修道共同体内の紛争調停
 ・権利侵害と規約違反の防止
 ・修道女から記念を受ける
修道院長や保護者による規約の変更・違反の禁止

次回予告

  次回は、エウドキアの早世を受け、アンナが保護者に就任するようエイレーネーが改めて定めた第80条を読みたいと思います。

参考文献

Gautier, P.(ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165.
Jordan, R., "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724.

 

井上浩一『歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品』白水社、2020年。

大月康弘『帝国と慈善 ビザンツ創文社、2005年。

Dimitropoulou, V., "Imperial Women Founders and Refounders in Komnenian Constantinople," in M. Mullett (ed.), Founders and Refounders of Byzantine Monasteries, Belfast, 2007, pp. 87-106. (pdfの92-93頁欠落)

Galatariotou, C., "Byzantine Ktetorika Typika: A Comparative Study," Revue des études byzantines 45, 1987, pp. 77-138.

 

今回参照できませんでしたが、ビザンツにおける俗人による修道院創設については、J. P. Thomas, Private Religious Foundations in the Byzantine Empire, Washington, D. C., 1988 が重要かつ基本的な文献のようです。

注釈

*1:ギリシア語で「掴む」「味方する」等を意味する動詞「antilambanō」の分詞の女性形。英訳では他の規約との整合性も考慮してかprotectressと訳されているため、ここでもそれに則り「保護者」とする。

*2:antilēpsisはantilambanōすることを意味する名詞、ephoreiaは同じく修道院の保護者に用いられる用語であったephorosに対応する抽象的な名詞。Oxford Dictionary of Byzantiumでは修道院の保護者は"ephoros"で立項されている。

*3:大月康弘『帝国と慈善 ビザンツ創文社、2005年、149頁、J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, p. 345.

*4:Thomas, Hero, p. 329.

*5:大月、151-152頁。

*6:カリスティキアについて、より詳しくは修道院の独立性を定めた第1条などを読む際に触れたい。

*7:大月、252-253頁。

*8:Thomas, Hero, pp. 610-611.

*9:C. Galatariotou, "Byzantine Ktetorika Typika: A Comparative Study," Revue des études byzantines 45, 1987, p. 103.

*10:V. Dimitropoulou, "Imperial Women Founders and Refounders in Komnenian Constantinople," in M. Mullett (ed.), Founders and Refounders of Byzantine Monasteries, Belfast, 2007, pp. 95-99.

*11:Galatariotou, pp. 87-88.

*12:エウドキアは夫イアシテスの暴力に苦しみ、離縁して修道院に入っていた(井上浩一『歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品』白水社、2020年、128頁。)。

*13:エウドキアはこの後早世し、エイレーネーは後に第80条を追加して、アンナやその子孫が代々保護者となるよう定める。

『ケカリトメネ修道院規約』 第17条 試訳(訪問者)

 年末の多忙にかまけて今回も更新が滞ってしまいました。訳文自体は11月には既に大体できていたのですが、仕事帰りなどで疲れていると「課題と疑問点」などを書くゆとりがなく、記事の形に持っていくまでに時間がかかってしまいました。自分の訳文を何の注釈もなく、また他者のチェックも通さずにネットに放流する危険は承知しているつもりなので、初回の冒頭にも書いた通り、せめて自信のない訳語や疑問点に関してはなるべく明示し、できれば解決してから公開したいと思っています。その一方で、他の活動と並行しつつ、大型連休に頼らずとも更新を続けることも目指しているため、うまく労力を調整することが当面の課題といえます。

 翻訳の裏では、前回紹介したClacksonの教科書に一通り目を通し、SihlerのNew Compatarive Grammar of Greek and Latinを読み始めました。こちらも細かい議論はついていけずに半ば読み飛ばしてしまうことも多いのですが、ギリシア語とラテン語の経験があって(比較)言語学に関心があれば、目から鱗が次々と落ちること請け合いです。ちなみに、言語としての古典ギリシア語やラテン語について詳しく知りたい場合に手軽に見られる文献案内として、Porcus氏によるもの(Miscellanea: ギリシャ語とラテン語を知るための参考文献)が非常に参考になりました。

目次

第17条について

 第17条は、修道院への訪問者をはじめ、修道女と内外との交流に関する規定といえます。訪問者に関しては、女子修道院であるケカリトメネ修道院は男子禁制であったことから、性別によってその扱いには差が設けられています。また、修道女が病気の親を見舞いにいくための外出についてもここで取り上げられています。最初に読んだ第4条でも、皇族の修道女が病気の親族を見舞いに行き、外泊することが認められていましたが、第17条では修道女の見舞いの相手は両親に限定され、宿泊は認められていません。このことからは、皇族の修道女が外部との交流においても優遇されていたことが見て取れます。

訳文を読む上での注意点

 底本として、ゴティエによる校訂を使用し、適宜英訳を参照しています。

 また、訳文の段落分けは訳者によるもので、訳文の作成にあたって訳者が補った単語は〔〕で表示しています。構文・語義の解釈に特に不安のある部分は青字で示し、原語を付記しています。

『ケカリトメネ修道院規約』第17条 試訳(底本pp. 75-76、英訳pp. 684-685)

「訪問者たちがいかにして修道女たちと面会すべきか、また〔彼らが〕何者であり、それがどのようなときであるべきか」


 修道生活に関する教えの中のいくつもの箇所で、修道士たちには地上において血縁関係というものがないのだということが教父たちによって説かれていたとはいえ*1、人間の弱さゆえに、私は以下のように命じる。すなわち、本修道院を、修道女の母、姉妹、あるいは兄弟の嫁といった女性が訪れた場合は、彼女は院長が許可すれば修道院へと入り、差し出された食事を修道女たちとともに食べ、親族が元気であるとわかった場合は、夕方に辞去する。彼女は年に一度か二度これを行う*2

 ただし、〔その修道女が〕病気であり、しかもその病が重い場合は、〔訪問者が〕母親であれば、修道院にとどまって病気の娘を看病し、翌日同様に修道女たちと食事をともにしたうえで、夕方に辞去する。また、〔修道女に〕面会に訪れた者がその姉妹、兄弟の嫁、兄弟の〔娘である〕姪(ἀνεψιά *3 )である場合は、必ずやってきた日の夕方に辞去する。

 一方、面会のため訪問してきた者が、〔修道女の〕父、兄弟、姉妹の婿といった男性である場合、〔本修道院は〕完全に男子禁制であり、〔男性に対して〕常に閉ざされているものと私が定めているため、〔その者は〕修道院に入ることはない。そうではなく、その者は外で〔門を〕叩き、院長がそれを知らされると、面会を希望されている修道女が彼女の指示によって門まで行く。加えて、〔院長が〕それを望み、また可能であるならば、院長〔自身〕が同行する。さもなくば、院長の指示によって最も年長で誉れの高い修道女のうちの一人が〔同行する〕。そして、門扉が開いた後、〔訪問者は〕門の側に立ち、修道女と手短に話を終えて立ち去る。

 父や兄弟や姉妹の婿が面会のために訪れた修道女が病気であり、門まで行くことができないほどの場合であっても、彼ら〔訪問者〕が修道院へ入ることはない。ただし、病気の〔修道女〕が、訪れた親族に会うことを希望し、それが必要であると考えている場合は、〔その者は〕門の側へ担架で運ばれ、そこで彼〔=訪問者〕と面会しなければならず、そして連れ戻されなければならない。なぜならば、男性に対して本修道院に入る口実を与えること、そして外側の門がすべての〔男性〕に対して直ちに閉ざされないことは、私にとって非常に煩わしく、不本意なためである。というのも、純潔なる花婿へと嫁いだ者たちに対して、悪魔の横暴による害が〔訪問者と〕ともに入り込む恐れがあるがゆえに、私は男性が〔修道院への〕いかなる進入からも斥けられるのがふさわしいと信じ、このように命じているのである。男性が修道院長と面会するために修道院を訪れた場合も、同じ内容が有効でなければならない。

 また、修道女のうちのある者の父もしくは母が病気であり、息を引き取ろうとしているほどの場合で、その父もしくは母の容態の悪い修道女が、衰えた父か母に会うことを希望し、それが必要であると考えている場合は、その者は院長の指示のもとに修道院を出るが、その際年長かつ敬虔な修道女たちのうち二名を同伴する。そして、病気の父あるいは母に面会した後、修道院の外部で宿泊することはせず、夕方に修道院へ帰還する。

 加えて、修道院の〔財産〕の管理をしている者たちやその他の理由で訪ねてきた者たちで、院長に面会することが必要な者たちが、修道院内で彼女と会うことを私は望まない。彼女は、最も敬虔な二名ないし三名の老女とともに、内側の門まで出て、二つの門の間で訪問者たちと会い、修道院の〔財産〕について検討する。そして、再び修道院へと入ることで、本修道院を先述の通り男子禁制に保つ。

 だが、〔修道院長が〕外へ出て訪問者と会おうとしている用件が、必要なものではない場合、〔彼女は〕外に出ることなく、財産管理人(οἰκονόμος)もしくは司祭(πρεσβύτερος *4 )によって〔用件を〕伝えられ、有益と思われることが彼女によって手配される。

 他方、女性が彼女〔=修道院長〕との面会のために修道院へとやってきた場合、私はこの問題を彼女の判断に委ねる。というのも、彼女が外部から訪問してくる女性と、修道生活の諸規則に反する仕方で面会を行うなどということをするはずはないためである。

 また、高貴な暮らしを身にまとった世俗女性あるいは修道女が、外部から、本修道院で修道生活を行う修道女たちの徳ゆえに本修道院を訪問することを望んだ場合、彼女は決して拒まれず、修道院長の指示によって修道院に入り、修道女たちと食事をともにして夕方に辞去する。そして、訪問者が、修道院に宿泊することを希望し、それが必要であると考えている場合は、〔その者は〕そこに宿泊し、翌日に辞去する。このことは、敬虔な女性の訪問者のおのおのについて、年に一度あるいは二度生じる。このような仕方で訪問してくる女性たちは、門の近くにある貴人の建物(ἀρχονταρίκιον *5 )で休息し、その脇の通路から修道院へと出入りする。

 

要旨

【修道女宛の来客】
・修道女の親族女性は修道女を訪ねて修道院に日帰りで入ってもよい
 ・病気の修道女をその母親が訪問してきた場合は、一泊して娘を看病できる
・修道女の親族男性は男子禁制の修道院には入ることができない
 ・修道女の方が門まで出向いて面会する
 ・修道女が病気の場合も担架で門まで運ばれて面会する
【修道女の外出】
・親が病気の修道女は、日帰りで親の見舞いに行くことができる
修道院長宛の来客】
修道院長宛の男性客があった場合、修道院長は二つの門の間で面会する
 ・不要不急の場合は、財産管理人や司祭が応対する
修道院長宛の女性客への対応は、修道院長に委ねられる
【貴族女性の来客】
・貴族女性は希望に応じて訪問することも、所定の建物に一泊することもできる

 

課題と疑問点

1. 男性役職者の存在

 上に見たとおり、修道院の男子禁制の原則は第17条でも強調されており、男性の来客は、同じ条件の女性来客が修道院に入ることが許される場合であっても、進入を禁じられています。ここで注目されるのは、修道院長に宛てた来客に関して、必要最低限の場合以外に用件を修道院長に伝える者として、財産管理人(oikonomos)と司祭(?、presbyteros)が登場していることです。ケカリトメネ修道院の財産管理人と司祭は、宦官が任命されなければならないということが、それぞれ第14条と第15条で定められています。男性訪問者に女性である修道院長が接触することをを避けるため、男性である彼らが代わって応対するよう定められていたと考えられます。なお、他の修道院では、財産管理人については女性が任用される例も、また男性の司祭については特に宦官という限定がなされない例もみられることから*6、両者を宦官でなければならないとする点はケカリトメネ修道院の特徴ということができそうです。彼ら男性役職者と修道院長、また彼らと修道院の禁域との関係と隔たりがどのようなものであったのかについても、今後できれば考えてみたいと思います。

2. 貴族女性の来客

 修道女宛の来客については、修道女の親族とは別に、特に修道女自身との関係が限定されない貴族女性が訪問してくるケースについての規定がされています。この規定が具体的にどのようなケースを念頭に置いているのかについては、この箇所だけでははっきりとしません。ただし、ここまで規約を読んできた限りで一つ考えられるのは、この規定がエイレーネー自身やその子孫が修道女となった場合を予期している可能性です。第4条で、皇族の修道女が外部との交流について他の修道女たちよりも優遇されていることを考えれば、この規定についても、彼女たちに知人らとのより親密な交流を認める措置として考えることができるかもしれません。

次回予告

 次回は、やはり修道院内外の交流に関わる、第29条の門番についての規定を読みます。来年もこうして引き続き細々とギリシア語を読み進めていきたいと思います。皆様もどうかよいお年をお迎えください。

参考文献

Gautier, P.(ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165.
Jordan, R., "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724.

 

Talbot, A.-M., "Women's Space in Byzantine Monasteries," Dumbarton Oaks Papers 52, 1998, pp. 113-127.

注釈

*1:συγγένειαν μοναχοῖς μηδεμίαν εἶναι επὶ γῆς, 出典わからず。

*2:頻繁な訪問を禁じる趣旨か

*3:LSJの語義は「従姉妹」だが、ここでは姪を指すと思われる。

*4:ゴティエは、本規約の他の箇所にこの単語が現れないため正確な語義は不明としつつ、この役職を、第15条に規定されている司祭の一人で財産管理人を補助する役割を担う者と推測している(底本p. 62, n. 2)。

*5:この単語についても他に用例が知られていない(id. n. 3)。

*6:Talbot, pp. 120-121.

『ケカリトメネ修道院規約』 第74条 試訳(外部からの視線の排除)

 なんやかんやで今回も1ヶ月以上経っての更新となってしまいました。最近はこの翻訳以外では、インド=ヨーロッパ語族の基礎知識を持っておきたいということで、ClacksonのIndo-European Linguistics: An Introductionを少しずつ読んでいます。議論を把握しきれないまま流してしまっている部分もありますが、例えば喉音理論や母音階梯をはじめ、ギリシア語を読む上でももっと早く具体的に知っておけばよかったと思わされる内容ばかりです。今までに言語学をきちんと学んだことがなかったので、風間喜代三『言語学』(第2版)を予め読んで当たったのですが、特に術語に対応する英語が併記されている点も含め非常に助けになり、これを読まなければ本当にClacksonには歯が立たなかったと思います。

目次

 

第74条について

 第74条では、ケカリトメネ修道院の修道生活の場が外から覗き見られてはならないことが定められています。修道生活の場、とあえて述べたのは、以下に見る通り、この規定で扱われている場所は、前回の第79条でも触れられている皇族の屋敷からも覗き見られてはならないと述べられているためです。第79条の方にも、アンナやその子孫に対し、屋敷の建物について、「ケカリトメネとフィラントロポスの両修道院」の内部を覗き見ることのできるような現状変更を禁じる規定がありました*1。修道女たちとエイレーネーやアンナの暮らす場所が機能的にも空間的にも区分されていたことが見て取れます。

訳文を読む上での注意点

 底本として、ゴティエによる校訂を使用し、適宜英訳を参照しています。

 また、訳文の段落分けは訳者によるもので、訳文の作成にあたって訳者が補った単語は〔〕で表示しています。構文・語義の解釈に特に不安のある部分は青字で示し、原語を付記しています。

『ケカリトメネ修道院規約』第74条 試訳(底本pp. 128-129、英訳pp. 703-704)

「本修道院はいかなる方向からも覗き見られてはならないということについて」

 この点もまた、先に述べられたことのうちのいずれにも劣らないどころか、むしろ最も必要な事項に属するものであり、おざなりな検討や考慮では不足であるように私には思われた。というのも、修道女たちの生活の場であり、彼女たちの修道生活のために私によって指定された〔場所〕はすべて、神のもとで永久に、いかなる部分においても、またいかなる方面からも、覗き見られることなく保たれることを私は望んでいるのである。たとえ、正しく考えようと欲する者にとっては、そこに何らかの視野を新たに設けることが私の意図にまったく沿わず、またこれに反するのだということが、これまでに書かれた〔条文〕の内容や意味から明白であるとしても、〔私には〕この点に関する干渉を特に明文的に禁止する必要があると思われた。

 それゆえにこそ私は、この点に関する私の命令によって、いかなる時においても、修道女たちの生活のために割り当てられた区域の中の何かに対して、あるいは内側のものであれ外側のものであれ彼女たちの中庭に対して、また禁域(περίβολον*2)に対して、皇族の住居(δεσποτικὰ οἰκήματα*3 )からであれその他の〔建物〕からであれ、またそれらの外側の中庭からであれ内側の〔中庭〕からであれ、いかなる場所からも、修道院の保護者の同意があろうとその他の事情であろうと、何らかの視線が生じることを抑止し、排除する。そして、修道院の〔事物*4〕に対する視界が、上層階の露出部分(ἡλιακόν τι καὶ ὕψωμα)や、扉、出入り口、窓、何らかの小窓を通じて設けられることは、いかなる理由であれ(それがもっともらしく思われようと)決して許されることがない。

 ところで、以上のようなことが、たとえ意図せずとも何者かによってなされた場合、修道院の当代の保護者は、これによる害が確認され次第、たとえそれ〔=害〕が非常にわずかなものであったとしても、調査や議論をさしはさむことなく直ちにそれを除く必要がある。というのも、既に示されている通り、我が恩寵に満たされし〔=ケカリトメネ〕神の母の修道院に身を捧げる修道女たちの修道院内における暮らしが、いかなる方法によっても、またいかなる人物からも覗き見られないものであり続けることを、私はこの件に関して以上のように配慮することによって保証しているためである。

 また、私の現在の生からの離別の後に、〔修道院の〕外側の中庭と修道院の禁域(τὸ τῆς μονῆς περιβόλιον)との間の漆喰固めの(ἐγχόρηγος)隔壁に対して、何らかの建物を密接させたりその上に建設したりすること、あるいは、どのようなものであれ別の〔壁〕を新築することは許されず、完全に禁じられる。というのも、私はこの壁が同じ外見に、また私が神の元へと旅立つその日に有している状態にとどまり続け、増築されることであれ低められることであれ、いかなる変更も決して受けることがないことを望んでいるためである。

要旨

 ・修道生活の場は外部から覗き見られてはならない
 ・修道院の保護者は、外部からの視野に気づき次第これを取り除くこと
修道院の外側の中庭と禁域を仕切る壁への変更は不可

課題と疑問点

peribolonとperibolionは「禁域」でよいか

 今回、訳文第2段落と第4段落に当たる箇所に、それぞれperibolon、peribolionという単語が出てきています。ここでのperibolonは、形容詞peribolosの中性形が名詞的に用いられているものです。一方、peribolionについても、辞書(LSJ)を確認するとperibolosを参照するよう指示があります。そのため、上記の二つの単語の意味しうる範囲はほぼ同じであるとひとまず考えてよいと思います。

 しかし、現にこの条文のそれぞれの箇所をどう解釈すべきか考えたとき、このperibolosの持ちうる意味の広さが問題になってきます。

先のLSJでは、今回に関わる限りでは、

・「取り巻いている壁(II. 1)」
・「(壁などによって)囲まれている場所(II. 2)」

の語義が挙げられています。要するに、peribolonもperibolionも、辞書的には壁そのものと、その内部の領域の双方を意味しうるということになります。

 以上を念頭に条文に立ち戻りますが、先に第4段落のperibolionに目を向けたいと思います。この単語は、「外側の中庭とperibolionとの間の壁に変更が加えられてはならない」という趣旨の記述に登場します。そのため、このperibolionについては、明らかに囲われた領域を指すものと考えることができます。校訂者のゴティエも英訳者のジョーダンも、ともにこれに沿った訳語(enceinte, enclosure)を当てています。

 他方で、第2段落のperibolonは、外部から覗き見られてはならないものとして並列されている以下三つの物の一つとして挙げられています。

①修道女たちの生活のために割り当てられた区域の中の物
②内外問わず中庭
③peribolon

ジョーダンは、こちらにもenclosureという訳を当て、ケカリトメネ修道院規約のうち、修道院の空間構成に関わる記述を分析しているミツィウもまたこれに従っています*5。一方ゴティエは、このperibolonについては壁という語義を採用しており(le mur d'enceinte)、解釈が分かれています。後者で言われている壁は、先のperibolionを囲む壁のことであると考えられます。

 並列されているもの同士が必ずしも排他的に見えないこともあり、どちらの解釈も不可能とはいえないと思いますが、私としては、このperibolonもまた領域として捉えたいと思います。というのも、先に見た第4段落の「peribolionと修道院の外側の中庭を区切る壁に変更が加えられてはならない」という定めが、本規定の「修道院が覗き見られることがないようにする」という趣旨の下でなされている以上、この壁には外部からの視界の遮断という役割が期待されていたことが明らかであり、そのうえで壁自体もまた見られてはならないという規定がなされるのはやや不自然に思われるためです。

 以上のことから私は、第74条のperibolonおよびperibolionはいずれも領域として理解しました。ビザンツ修道院には、壁で囲われ、修道士や修道女が基本的にそこから出ることなく修道生活を送る区域がありました。そこでは、外界との出入り、とりわけ異性の進入は原則として厳しく制限されていました*6。第74条のperibolon/peribolionもまた、ちょうどこのような区域を指すものであると考え、ここではさしあたり「禁域」という訳を当てています。ビザンツ修道院におけるperibolon/peribolionという言葉、あるいはこの言葉で表される区域について、適切な理解・訳語が知られている場合は、ぜひコメント等お寄せいただければ幸いです。

次回予告

 今回の規定は、修道女の生活する領域を外界と隔離するためのものであると考えられますが、こうした隔離の原則に対して、例えば修道女の外出に関しては、既に第4条でも見たように、修道女の外泊が可能な場合があるなど、様々な例外がありました。タルボットは、こうした例外についての規定に加えて、聖人伝などの別種の史料をも検討し、現実には修道院からの修道士・修道女の外出や、外部からの異性の訪問・進入も少なくなかったことを示しています。とりわけ女子修道院の場合は、基本的に男子禁制とはいえ、司祭をはじめ男性の進入が運営上不可欠でした。とはいえ、進入が許される男性がどういった人物か、どのスペースにどのような形で男性が入ることができるかなど、隔離の程度や様式は修道院によって微妙に異なっていました*7

 以上を踏まえ、次回からはしばらく、アンナやエイレーネーらの生活からはやや離れた内容になりますが、ケカリトメネ修道院における修道女たちと外界の隔たりに関する規定を読んでみたいと思っています。次回はまず、第17条の来客に関する規定を取り上げる予定です。

参考文献

Gautier, P.(ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165.
Jordan, R., "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724.

 

Mitsiou, E., "The Monastery of Kecharitomene and the Contribution of the Assumptionists to the Study of Female Monasticism in Byzantium," in M.-H. Blanchet and I.-A. Tudorie (eds.), L'apport des Assomptionnistes français aux études byzantines, Paris, 2017, pp. 327-344.
Talbot, A.-M., "Women's Space in Byzantine Monasteries," Dumbarton Oaks Papers 52, 1998, pp. 113-127.

注釈

*1:第79条「アンナの権利」「アンナ没後の扱い」の節参照。

*2:「課題と疑問点」参照。

*3:第79条にも同様の表現がみられる。エイレーネーやアンナらの居住する屋敷のことか。

*4:原文τὰ τοῦ μοναστηρίουに対し、校訂者ゴティエは建物(bâtiments)、英訳者ジョーダンは活動(activities)を補っている。

*5:Mitsiou, p. 337.

*6:Talbot, p. 113.

*7:Talbot, pp. 119-127.

『ケカリトメネ修道院規約』 第79条 試訳(エイレーネーとその子孫の住居)

 今回も引き続き『ケカリトメネ修道院規約』を読みます。1ヶ月以内の更新を目指すと言いつつ、今回は訳出箇所が長かったことなどもあり、それ以上に間が空いてしまいましたが、基本的には月1回程度の更新を目安に続けていきたいと思います。

目次

第79条について

 前回の第4条は、ケカリトメネ修道院の修道女となった皇族や貴族の女性に対して、住居や食事の面で特別な待遇を定めたものでした。第79条は、エイレーネーによって修道院に建設された、彼女自身やその子孫の暮らす屋敷とその権利についての規定です。前回も触れたように、第4条で述べられている皇族修道女用の住居と、第79条の屋敷との関係が注目されます。

 また、『歴史学の慰め』では、アンナが父アレクシオス1世の眠るフィラントロポス修道院に面した部屋をこの屋敷の中に持っていたことや、屋敷のその部分がアンナの死後取り壊される予定とされていたことが紹介されています*1。それ以外にも、第79条では、アンナの死後の屋敷の権利の相続や、代々の権利者への許可・禁止事項などが規定されています。「修道院規約」という言葉からイメージされる、修道生活について定めた規則というよりは、不動産の権利に関する条文の色彩が濃いものといえます。

訳文を読む上での注意点

 底本として、ゴティエによる校訂を使用し*2、適宜英訳を参照しています*3

 訳文の段落分けは訳者によるものです。特に今回は条文が長いため、便宜上原文にない見出しを付けています。訳文の作成にあたって訳者が補った単語は〔〕で表示しています。構文・語義の解釈に特に不安のある部分は青字で示し、原語を付記しています。特に今回、ローマ~ビザンツの法制度を前提とする記述が登場し、この分野の理解が不十分であるために訳が正確でない可能性がある単語に関しては緑字で示しました。以上を念頭に置いてお読みいただければ幸いです。

『ケカリトメネ修道院規約』第79条 試訳(底本pp. 136-142、英訳pp. 706-709)

「私によって修道院内に新築された豪奢な建物について*4

序文

 恩寵に満たされし〔=ケカリトメネ〕神の母の修道院内に、私によって新たに設けられた豪奢な建物についても、相応の〔扱い〕を決定する必要がある。というのも私は、高貴なる本修道院の周囲に、修道院にとって必要であり、修道女たちの必要をあらゆる点において満たす分の〔建物〕の他に、豪華な建物をも私的な居住のために建設したうえで、我が祝福されし〔=今は亡き〕ポルフュロゲネトスの修道女、エウドキア殿がこれらを有し、これらを私的な居住と休息のために用いることを望んでいた*5。ところが、彼女は私の希望から早くも奪い去られて「永遠の住まい」(ルカ 16: 9*6)へと移ってしまい、これら〔の建物〕についても私が自らの考えを決めることが必要であった。そのため、私はこれを行い、以下のように決定する。

アンナの権利

 すなわち、私の現世における生からの離別の後は、我が最愛のポルフュロゲネトスにしてカイサリッサのアンナ殿が*7、彼女が私の生前においても居住していた部屋のすべてのみならず、ケカリトメネ〔修道院〕内の建物で、私と子供たち、そして我々の手に属する男女の使用下にあったものすべてに加え、豪奢な建物の内側の中庭(αὐλή)に隣接する外側の中庭を(なお、かつては葡萄畑であったが中庭に転換されたもう一方の中庭に関しては、私がいつか発する命令書が指示する*8)、さらに、聖デメトリオス教会と二つの浴場*9、および修道院に引き込まれている湧き水の三分の一を、〔現在〕私によって占有されている(κατέχονται)のと同様に、終生妨げられることなく占有する(κατέχῃ καὶ νέμηται)

 このとき、彼女には以下のことが完全に許されねばならない。すなわち、彼女の望む他の建物を新たに建設すること、皇族のもの(δεσποτικά)であれそうではないものであれ、現存の〔建物を〕彼女の決める通りに改変すること、彼女の欲する外見へと作り変えることである。ただしその際彼女は、以下の点のみは厳守する。すなわち、両修道院、つまりフィラントロポスとケカリトメネの境界壁に新たに何らかの負荷をかけず*10、両院を覗き見ることもしないという点である。

アンナ没後の扱い

 彼女の逝去後は、上記の不動産全てとその他の権利の使用(χρῆσις)占有(κατοχή καὶ νομή)を、区別も例外もなく、我が最愛の孫娘で、アンナ殿の娘のエイレーネー・ドゥーカイナ殿が有する。ただし、ポルフュロゲネトスのアンナ殿の現世における生からの離別の後は、境界壁の外にせり出して(ἄπῃωρημένοι)、フィラントロポス修道院の庭の方を向いており、こんにち前述のポルフュロゲネトスが住んでいる建物に限っては破却されねばならず、その〔境界〕壁はさらに2ペキュス〔=約1m25cm*11〕高められなければならない*12

権利相続の原則

 他方、エイレーネー殿の死後に、もしその母であるポルフュロゲネトス〔=アンナ〕が遺言とともに死去した場合は、皇族の建物およびその他の建物は、彼女の子、孫、あるいは曾孫のうち、男性であれ女性であれ、彼女の選ぶ者へと相続される。

 また、エイレーネー殿よりも先にその母〔=アンナ〕が現世における生を終えた場合、あるいは、それ〔=アンナの死〕が彼女より後であっても、〔アンナが〕この件について遺言を残さなかった場合(〔いずれの場合も結果に〕違いはない)、上記の建物その他の占有(κατοχὴ καὶ νομή)の権利は、以下の規定(διάστιξις)に従って、ポルフュロゲネトスのアンナ殿の子、孫、あるいは曾孫のうち、最年長の男子または女子に移転する。

 すなわち、この権利の伴っている人物が遺言とともにその生から離別する場合は、自身の子や孫以下直系の者たちのうち、自身の望む者へとこれらを相続させることが許される。一方、その者に自身の子孫がいない場合や、〔その者が〕この点について遺言を残さなかった場合、先述の権利は再びポルフュロゲネトスのアンナ殿の子孫のうち、最年長の者へと移動する*13。そして、この規定(διάστιξις)は、先に示したポルフュロゲネトスの血統の継続が保たれている限り存続する。

 また、ポルフュロゲネトス〔=アンナ〕は、遺言によって、上述の通り本人の子、孫、あるいは曾孫にこの権利を相続させるだけでなく、彼らのうち何者かを通じた嫁のうち、彼女の望む者にも〔権利を相続させる〕。その者もまた、二度目の婚姻を目論まない限り、同様にこれらの住居を占有する(καθέξει)。というのも、その者がこれ〔=二度目の婚姻〕へと逸脱した場合は、〔その者はこの権利から〕直ちに外れ、権利はポルフュロゲネトスの血統へと受け継がれるのである。

 このことは、この権利を取得した者から上記のように〔=遺言を通じて〕相続することによってこの権利が帰属することになった他のあらゆる嫁にも例外なく生じねばならない。というのも、ポルフュロゲネトスだけではなく、彼女の子孫も、本人が望めば遺言によってこの権利を、自身の子孫を通じた自身の嫁の一人に相続させることができるのである。ただし、以下のことが了解されなければならない(ἐκείνου τῶν ὁμολογουμένων εἶναι ὀφείλοντος ὡς...)。すなわち、私が特に男性のみに言及している場合であっても、それによって女性のことも同時に理解されねばならず、これらの住居に関する本条項に関する限りは、女性も同じく言明されていると考えられなければならないということである*14

 また、生じないよう祈っていることではあるが、この血統が絶え、ポルフュロゲネトスのアンナ殿の家系の者が誰一人残っていない場合は、これらの建物は本女子修道院管理(ἐξουσία)の下へと復帰するものと定める。そして、外側の中庭(αὐλή)の建物は、借家へと形を変え、それらの賃料は修道院が享受する一方、内側の中庭の建物は、取り除いた上でその建材を本院の希望通りに用い、またその敷地は商用の庭園および果樹園(περιβόλιά τε καὶ παραδείσοι ἐπικερδεῖς)として用い、その全収益は、浴場のものも含め、修道院が享受する。

権利者への許可・禁止事項

 また、先述の住居において、占有(νομή)居住(οἴκησις)をその時々で有することになっている者たちは、そこで敬虔に暮らし、ケカリトメネ修道院に決して損害(περικοπή)をもたらさない。しかし彼らは、彼らに対して認められている建物の敷地の中で、彼らの希望する場所に建物を設けることができ、これを男子修道院および女子修道院内の何物をも見下ろすことのできない限りの高さにすることが許される。ただし彼らは、修道院や建物の何も支えていない壁(ἀργοὶ τοίχοι)の周囲に何一つ建物を寄りかからせることはなく、それら〔の建物〕は私のもとでそのようになっているのと同様、いずれの箇所においても自立した状態(ἐλεύθερα)となる*15

 また、先述の建物の占有(κατοχή καὶ νομή)を有すると定められた者たちのうち何人によろうとも、売却、賃貸、交換(ἀνταλλαγή)、贈与、抵当、質、その他の方法によって、これらの使用が外部の人物に許容されることはない。それどころか、この権利を取得した者は、(おそらく他の場所に自身の居所を構えたうえで、)単に他の何者かをこれら〔の建物〕に入居させることすら許されない。このことは私が完全に禁じている。

 また、生じてほしくはないが、本修道院の建物の使用をある時点で有している人物が、(再びこれらについての言葉を繰り返さねばならないが、*16)何らかの形で、公的(δημοσιακή)であれ私的(ἰδιωτική)であれ、また財産上(χρηματική)であれ刑事上(έγκληματική)であれ責任(ἐνοχή)を課せられた場合、あるいは大逆罪(καθοσίωσις)に問われた場合であっても、私は以下のことを望む。

 すなわち、これらの建物やその利用が責任の対象とされ(ένοχοποιεῖσθαι)ず、あらゆる責任(ἐνοχή)から自由であること。そしてまた、責任(ἐνοχή)財産上(χρηματική)のものである場合は、たとえその人物の他の全財産が法に従って債権者(χρεώσται)のものとなったとしても、これらの使用を有している同人物は、引き続きこれらを占有する(κατέχειν καὶ νέμεσθαι)ことである。というのも、これらの建物とそれに属するものすべての使用と占有(κατοχή)は、あらゆる財産上の責任(χρηματικὴ ἐνοχή)を超越していなければならないためである。これは、それらを占有する(κατέχειν)者たちに対して、私がそのような形でそれらを相続させているためである。

 他方、罪(εὐθύνη)刑事上(έγκληματική)のもの、あるいは大逆罪(καθοσίωσις)である場合は、それ〔=建物の使用〕は、上記の規定(διάστιξις)と決定に従って、その者に次いで指定されている人物に帰するよう〔私は望む〕*17。そのような人物が絶える場合は、〔建物の使用は〕所有者(δεσπότις)である修道院へと帰する。

 また、――生じるなかれ――これらの住居が一部であれ全部であれ焼失した場合、私は、居住の帰属している建物が無に帰したがゆえに使用の権利が停止するということは望まない。むしろ、上述の規定に従ってその使用の権利を有している者が、再度これ〔=使用〕を有し、また上述の権利を占有し、行使する(κατέχειν τὰ τοιαῦτα δίκαια ὡς ἄνωθεν εἴρηται καὶ χρᾶσθαι τούτοις)ことを私は望む。その際その者は、焼けた部分のうち、どこであれ可能な部分に建物を再建することが許されるが、これらの相続と移転に関する規定(διάστιξις)は、上記でより明確に述べられた通りに守られ、有効でなければならない。

 ただし、何者かに対してそれらの敷地を、庭園にしたり借家を建設したりするために譲渡することは何人にも許されず、居住のために、自身に可能な別の建物を再び建設する〔ことが許される〕。そして、この敷地を私のこの定めに反して別の方法で使用した者は、これら〔の建物〕から排除され、これらは上記で定められたところに従い、排除された者に次いで指定されている者へと移転する。

修道院による権利侵害・規約違反の禁止

 さらに、定められた命令と規定(διάστιξις)が全て確かなものであり続けることを私は望んでおり、修道院側が何らかの形で、私によってここに定められたところに違反することは許されない。というのも、これらの不動産の権利の保障を私は修道院側に対してこのように、またこれらの規定とともに行っており、また上述の仕方でそれらの所有権(δεσποτεία)修道院に属するよう命じているからである。

 また、たとえ修道院側が何らかの文書その他によって、これらの建物その他および、それらに伴うあらゆる物に関する権利を取得した場合であっても、私は、それら〔=建物等〕について、ここに命じられたところに反して何事かが生じることを望まない。というのも、当修道院全体と、その周囲にあり〔修道院に〕属するものを、多額の出費と負担によって設けた私には、これらの不動産について自身の考えを定めとすることが完全に許されるのであり、その上で私は自らの定めが不変のものであり続けることを望んでいるためである。そして、修道女たちがそれ以外の何かを試みた場合は、彼女たちはいかなる法廷においても受け入れられず、その試みの首謀者たちは他の者たちによって追放される。

要旨

・序文
 修道院に建設された豪華な建物について、
 エウドキアの死に伴い、新たな措置が必要になった
・アンナの権利
 ・エイレーネーの死後、建物に居住し、これらを利用する
 ・建物の新築・増改築も可能
  ・修道院を覗き見ることができるような変更は不可
・アンナ没後の扱い
 フィラントロポス修道院側へせり出している建物は取り壊す
・権利相続の原則
 ・アンナの死後は娘のエイレーネーが権利を受け継ぐ
 ・権利者は、遺言によって自身の子孫に権利を受け継がせることができる
  ・自身の子孫の配偶者も遺言によって指定することができる
   ・その配偶者が再婚した場合は、権利はアンナの子孫へ戻る
 ・遺言で特に定めのない場合は、権利は権利者の子孫のうち最年長者へ受け継がれる
 ・権利者の直系子孫がいない場合は、アンナの子孫のうち最年長者へ受け継がれる
 ・アンナの子孫が絶えた場合は、建物の占有は修道院へ復帰する
・権利者への許可・禁止事項
 ・権利者は新たな建物を建設してもよい
 ・権利者は外部の人物に建物の使用・居住をさせてはならない
 ・建物の占有・使用の権利は債権や財産没収の対象にならない
 ・建物が焼失した場合は権利者が再建できる
  ・他者への敷地の譲渡や賃貸は不可
修道院による権利侵害・規約違反の禁止

 

課題と疑問点

1. 男子禁制と外部との交流(前回の続き)

 第4条を読んだ際、「修道院内に設けられている皇族女性用の住居とは具体的にどのようなものなのか」「皇族女性も修道院の男子禁制を遵守することが命じられているが、修道院の男子禁制と、実際に行われていた男性の文人たちとの交流はどのような関係にあるのか」という疑問が出ました。第79条を読むことで、これらの疑問についてはある程度解決することができました。

 第4条で言及されている、修道女となった皇族の暮らす特別な住居と、第79条で扱いが定められている、エイレーネーやアンナらが代々居住する豪華な建物。一見して両者は同一の建物を指しているのではないかと考えることもできますが、第79条を読む限り、後者の建物は前者とは別のもので、男子禁制の場の外に設けられたものなのではないか、と考えられます。

 というのも、第79条で扱われる建物の居住の権利は、アンナの死後その子孫に受け継がれることになっていますが、男性もこれを相続できることになっているためです*18。さらに、第79条では、アンナの血統の断絶後は、これらの建物と敷地に関しては、所有者たる修道院の管理下に復帰し、家屋の賃料等も含めた収入源として活用することが想定されており*19、このことも、この場所が修道生活が営まれる場とは区別されていることを示唆しています。

 以上のことから、少なくとも、アンナの暮らしていた皇族屋敷は、修道院が男子禁制であることの制約を受けることなく、男性である文人たちとアンナが交流を持つことができる場だったのではないかと考えることができそうです。

2. 第4条のtropikeと第79条の建物

 他方、「第4条に登場する皇族修道女用の屋敷(tropike)とはどういう建物なのか」という疑問に関しては、第79条の建物がそれとは別物ということになると、この規定を手がかりに考えることは難しいということになります。もちろん、第79条は第4条よりも後になって追加された条項であるため、同じ建物が時期によって異なる扱いを受けていた可能性もありますが、この記事を執筆した時点では結論に至ることができていません。

3. nome, katoche, etc.

 Oxford Dictionary of Byzantiumの"possession"の記事では、ローマ法の占有(possessio)にあたるギリシア語として、nomeとkatocheが挙げられています*20。この二つの単語は、今回の条文にも登場しているのですが、時に併記され、時に片方のみが使用されています。この両者について、意味や用法の違いはあるのでしょうか。

 なお、ODBの同記事では、nomeとkatocheとdespoteia(所有、dominatio)がしばしば不正確に用いられていたという記述がありますが、この第79条では、概念としての所有と占有に関しては、屋敷の所有者は一貫して修道院であり、占有と使用の権利がエイレーネーからアンナとその子孫に受け継がれていくということで、明確に区別され、nome・katocheとdespoteiaとの間の混同は生じていないように見えます。

 最初にも述べたとおり、nomeとkatocheに限らず、今回の訳文では、法制度に関する訳語が不正確であったり、術語をそれと気づかずに訳し流してしまっていたりする箇所があるかと思います。私の調査不足によるもので恐縮ですが、詳しい方に訂正・ご教示いただければ幸いです。

次回予告

 次回は修道院の管理者(ephoros)について定めた第3条か第80条、あるいは修道院が覗き見られてはならないことを定めた第74条のいずれかを読むことを考えていますが、その前に別の短い史料に寄り道するかもしれません。今回は条文が長く、更新に時間がかかってしまったため、少ない作業で更新が可能なものから取り組みたいと思っています。

参考文献

Gautier, P.(ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165.
Jordan, R., "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724.

 

井上浩一『歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品』(白水社、2020年)
根津由喜夫『ビザンツ 幻影の世界帝国』(講談社、1999年)
Kazhdan, A. P. (ed.) The Oxford Dictionary of Byzantium, Oxford, 1991, 3 vols.
Mitsiou, E., "The Monastery of Kecharitomene and the Contribution of the Assumptionists to the Study of Female Monasticism in Byzantium," in M.-H. Blanchet and I.-A. Tudorie(eds.), L'apport des Assomptionnistes français aux études byzantines, Paris, 2017, pp. 327-344.

注釈

*1:歴史学の慰め』130~131頁。

*2:P. Gautier(ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165  https://www.persee.fr/doc/rebyz_0766-5598_1985_num_43_1_2170

*3:R. Jordan, "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724オープンアクセスの史料集。以下よりpdfがダウンロードできる。 Byzantine Monastic Foundation Documents — Dumbarton Oaks

*4:本記事で「私」と訳している部分の中には、ギリシア語では「ἡ βασιλεία μου (he basileia mou)」と述べられている箇所が多数ある。皇帝や皇后などが自身のことを指す際にみられる表現で、直訳すると「我が帝権」となり、これを主語に取る動詞は三人称の活用形を示す(英語の「your majesty」などに近い)。ここではわかりやすく日本語に置き換えられる表現が思いつかなかったため「私」とした。

*5:エウドキアはアレクシオス1世とエイレーネーの娘で、アンナの妹。

*6:新共同訳。

*7:カイサリッサは、ビザンツ爵位カイサルの女性形。アンナの夫であるニケフォロス・ブリュエンニオスがアレクシオス1世によってこの位を与えられていたことから、アンナはこのように呼ばれていたが、井上浩一氏によれば、アンナ自らこの称号を用いた形跡はない(『歴史学の慰め』85頁)。カイサルは、かつては副帝に相当する至高の爵位であったが、アレクシオス1世時代の爵位の再編によって上位の爵位が創設されてその地位を相対的に減じ、アレクシオス1世の孫のマヌエル1世の時代には、皇帝の長女の夫に与えられる爵位となっていた(根津由喜夫『ビザンツ 幻影の世界帝国』23~27頁)。

*8:ケカリトメネ修道院の空間構成について整理したミツィウは、このかつて葡萄畑であった中庭を「外側の中庭」のことと理解しているが(Mitsiou, p. 338)、訳者はこの箇所がどうしてそう取れるのか理解が及んでいない。中庭については第74条にも記述があるため、そちらも参照したい。

*9:聖デメトリオス教会と二つの浴場について、ミツィウは皇族屋敷内にあるものと考えている(Mitsiou, p.338)。

*10:フィラントロポス修道院は、エイレーネーによってケカリトメネ修道院とともに建立された男子修道院で、アレクシオス1世が死後に埋葬されたと考えられている。両修道院はともに現存しない。

*11:ギリシア語の「前腕」に由来する長さの単位。Oxford Dictionary of Byzantium(以下ODB)によると、ビザンツには2種類の主要なペキュスの単位が知られ、土木建築では46.8cmの短いペキュス、土地測量では62.5cmの長いペキュスが用いられていた(ODB, s. v. "Pechys," E. Schilbach)。ミツィウは後者を基準にケカリトメネ修道院の広さを約4945平方mと推定している(Mitsiou, pp. 342-344)。

*12:ケカリトメネ修道院については、規約第74条で周囲から覗き見られることがあってはならないことが定められている。フィラントロポス修道院についても、本来は外部からの視線が遮られるべきものと考えられていたのであろう。

*13:「最年長の者(ὁ τῷ χρόνῳ προήκων)」が男性形で出ているため、最年長の「男子」と解することもできるが、前段落や、2段落後の記述から、性別に関係なく最年長者に受け継がれることが意図されていたと思われる。(当初公開時は男子と訳していたが第80条の訳にあたって修正)

*14:男性子孫の嫁だけではなく、女性子孫の婿も指名されうるということか。断言できず。

*15:フィラントロポス修道院との間の隔壁など、建物の壁として機能していない壁に対して、これに接する建物や、これを建物と共通の壁としてしまうような建物を建設することを禁じたものか。

*16:規約上でこのフレーズに対応する箇所は未だ見つけられていない

*17:建物の時の占有者が財産没収等の処置の対象になった場合は、その人物から権利が剥奪され、死亡時と同様に、自身の子孫のうち最年長の者、あるいはアンナの子孫のうち最年長の者、という先述の相続順位に従って移転するということか。

*18:「権利相続の原則」第2段落「上記の建物その他の占有(κατοχὴ καὶ νομή)の権利は、以下の規定(διάστιξις)に従って、ポルフュロゲネトスのアンナ殿の子、孫、あるいは曾孫のうち、最年長の男子または女子に移転する。」

*19:「権利相続の原則」最終段落。

*20:ODB, pp. 1707-1708, s. v. "possession," M. T. Fögen

『ケカリトメネ修道院規約』 第4条 試訳(皇族・貴族の修道女)

  はじめまして、Limnaeusです。ここでは、主にビザンツ期にギリシア語で書かれた史料の中で、私が読んで面白いと感じたものをメモがてら日本語に訳していきたいと思います。今後も同じ内容、形態で続けるかどうかも含め、まだ方針も十分に定まらない状態ですが、ここに書き残されたものがほんの少しでも皆様にお楽しみいただければと思っています。

  また、私は現在いわゆる社会人なので、このブログも「働きながら続けられること」に重きを置いて更新していくことを考えています*1。そのため、翻訳や記述にあたって正確を期するのは当然のことながら、それでもまず記事として公開することを優先したがため、あるいは単に知識、能力、資源等が不足しているがために、調査の至らない部分がたびたび生じてしまうかと思います。当方でも自信のない部分はそうと明示するように心がけますが、そういった部分以外にも誤りや不明瞭な箇所があれば、コメント等で遠慮なくご指摘いただければ幸いです。後から自分で認識を改めた点なども合わせて、必要に応じて訂正・追記を加えていくつもりです。

目次

ケカリトメネ修道院とその規約について

 初めての記事のため前置きが長くなりましたが、今回からは『ケカリトメネ修道院規約』を読んでみたいと思います。ケカリトメネ修道院は、12世紀初頭に、ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスの皇后であるエイレーネー・ドゥーカイナによって、帝都コンスタンティノープル市内に建立された女子修道院です。

 この修道院は、アレクシオス1世夫妻の間に生まれた皇女で、歴史家として名高いアンナ・コムネナ(1083~12世紀半ば*2)がその後半生を過ごした場所としても知られています。彼女が亡き父帝の生涯を『アレクシアス』という歴史書に綴ったのもこの修道院でのことでした*3

 皇帝の長女として生まれ、名門貴族と婚姻して子供にも恵まれていたアンナがケカリトメネ修道院に入ることを余儀なくされたのは、父アレクシオス1世の死後帝位についた弟ヨハネス2世の殺害を企て、その計画が失敗したためでした。こうした経緯、および修道院という環境から我々がイメージしがちな非常に窮屈な境遇とは異なり、先月出版された、井上浩一『歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品』によると、実際のアンナは、修道院に設けられた皇族用の屋敷で比較的豊かな暮らしを送り、同時代の文人たちとも幅広い交流を持っていたといいます*4

 同書では、この時期のアンナの暮らしぶりを窺うことのできる史料の一つとして、ケカリトメネ修道院創設に際してエイレーネーが定めた規約が活用されています*5。この規約には、修道院の運営、典礼、生活など、様々な分野に関する78箇条(後に2箇条が追加)にわたる規定が含まれていますが、このブログではまず、その中でも『歴史学の慰め』で取り上げられている規定をはじめ、アンナやその周辺の人々との関わりで私が気になった部分を訳出していくことを考えています。

 今回は、ケカリトメネの修道女となった皇族・貴族女性を他の修道女に比べて優遇することを定めた第4条を読みたいと思います。『歴史学の慰め』においても、とりわけ皇族女性の外出や外泊が可能とされている点は、アンナが『アレクシアス』執筆にあたり、宮廷に保管されている資料を自ら閲覧して調査することが可能であったことを裏付けるものとして注目されています*6

訳文を読む上での注意点

 底本として、ゴティエによる校訂を使用し*7、適宜英訳を参照しています*8

 また、訳文の段落分けは訳者によるもので、訳文の作成にあたって訳者が補った単語は〔〕で表示しています。構文・語義の解釈に特に不安のある部分は青字で示し、原語を付記しています。

 規約の本文すべてに目を通していない状態での訳のため、全体を読めば一目瞭然なレベルの誤りが含まれている可能性があります。また、アンナの著作である『アレクシアス』については、今のところ通読はしていません(邦訳と英訳は手元にあります)。

『ケカリトメネ修道院規約』第4条 試訳(底本pp. 36-39、英訳pp. 670-671)

「私の孫娘たちのうち、剃髪して、本修道院で過ごすことを認められた者たち、および、貴顕の生まれの女性たちで、本修道院を訪れ、そこで剃髪する者たちが、いかに過ごすべきかについて」

 我が愛しき緋色の生まれのアンナ殿、もしくは我が愛しき緋色の生まれのマリア殿の娘たちのうちに*9、本修道院で世俗の髪が剃り落とされることを望んだり、すでに外部で剃髪を受けた上でやってきたりした者がいた場合*10、〔その者は本修道院に〕受け入れられるべきである。

 そして、その者が生活、食事、居住、その他本院で勤める者たちのあり方すべてにおいて、同じ規則と規律に従うことを望み、他の修道女たちの生活から外れ異なるところを何ら呈さないのであれば、その者は、その最良の転身と見事な変化のゆえに、神にとっても私にとっても歓迎されるべきである。

 しかし、その者が、慣れ親しんだ優雅な暮らしから過酷な暮らしへと移り変わることができない場合は、その者も他の者たちと同様に告解を行うことで、自身の考えと行いを修道女たちの共通の父に捧げる〔ことに変わりはない〕。ただし、その者は、本人に与えられる僧坊(κέλλιον)で、自身に可能な限りの食事と詩篇の朗唱を行う。すなわち彼女は、修道女たちの住居に隣接する修道女食堂のアプスの裏手に建設され、付属の僧坊(παρακέλλιον)やその他この住居に必要な備品を備えた小さな屋敷(τροπική)にて一人で暮らし*11、また剃髪された〔自身〕の状況が求めるところと院長の判断するところに従って、他の修道女たちの通常のものを上回る食事に与る。さらに、その者には、本人に仕える二名の女性を、〔その二名が〕自由人であれ奴隷であれ、抱えることが許される。〔彼女たちは、〕修道院の〔富〕によって養われなければならない。

 しかし、本修道院は男子禁制と定められているため*12、たとえ彼女が親類の何者かに会うことを望むようなことがあった場合や、差し迫った必要がそれを求める場合であっても、彼女は彼らを修道院内へと連れ込むことは許されず、院長の同意の下、門へと続く通路へと出向き、そこで彼らと語り合った後に再び修道院へ入る。これにより彼女は、先に述べたように、修道院の男子禁制を守るのである。

 ただし、彼女たち〔=エイレーネーの孫娘たち〕の中に、私のこの規約において、他の修道女たちに対して修道院からの外出について定められた規則に従うことができない者がいる場合は、その者は、本人に何らかの事情が生じた際に、年長かつ敬虔な姉妹〔=肉親ではなく修道女の意〕たちのうち、院長の望む一名を伴って修道院から外出することを、院長によって許可される。その〔付き添いの〕修道女は直ちに帰院するが、本人はその衰えた親族を二日ないし三日にわたって見舞ったうえで帰院する。また、彼女の衰えた親族が息を引き取ろうとしている場合は、その者が最期を迎えるまで、彼女はそこで待つ。ただし、その者の死が一日、二日、あるいはそれよりも先に延びる場合は、彼女は帰院する。

 また、貴顕の生まれにして高貴な身の上の者で、本修道院で世俗の髪が剃り落とされることを望んだり、すでに外部で剃髪を受けた上でやってきたりした者がいた場合、その者もまた〔本修道院に〕受け入れられるべきである。そして、その者が生活、食事、居住、その他本院の修道女たちのあり方において、同じ規則と規律に従うことを望むのであれば、その者は神にとっても私にとっても歓迎されるべきである。

 だが、その者が共同での居住を躊躇している場合は、修道女たちの生活とあり方の全体と比べ、彼女は以下の点に関してのみ異なるものとなる。すなわち〔彼女は〕、自身の住居として前述の屋敷(τροπική)を持つとともに、修道院の〔富〕によって養われる一名の侍女を従者として持つ。しかし、以上で彼女たちについて命じられた以外の点においては、彼女たちに関して共同生活の規律正しさが院長によって軽く見られることはない。というのも、共同生活のあり方の混乱と無秩序に関して彼女たちが許容されることのないよう私が命じたためであり、それは彼女たちについて定められた変更が〔以上で〕十分なためである。

 また、上記の者全て〔=エイレーネーの孫娘とその他貴族女性〕のうちのある者が、無思慮な点が数多いがために(οἷα πολλὰ τὰ τῆς άβουλίας)、修道院に何らかの形で損害を与えたり、完全なる姉妹の共同体の過ちと分裂を企てて修道女たちのうち何者かを自身の僧坊に招き入れ、談合したりすることを試みた場合で、さらに院長がその者を矯正することができない場合には、その者は〔本人が〕望まずとも、修道院の当代の保護者によって排除される。

要旨

以上の内容を簡単にまとめると、

・エイレーネーの孫娘がケカリトメネの修道女になった場合、
 ・特別な住居と食事に加えて二名の侍女を用いることができる
 ・修道院は男子禁制のため、男性の来客との会話は出入り口で行う
 ・やむを得ない事情、特に親族の病気の場合は外泊が可能
・貴族の女性がケカリトメネの修道女になった場合、
 ・特別な住居と一名の侍女を用いることができる
・上記いずれの者についても、
 ・修道院や共同体に損害を与えようとして、矯正の見込みがない場合は排除される
ということになるかと思います。

課題と疑問点

以下に、次回以降考えてみたい疑問点を列記します。

1. アンナ・コムネナと第4条の関係

 まず気になったのは、この規定で挙げられている皇族女性が、アンナやマリアの娘たち、すなわちエイレーネーの孫娘たちとされており、アンナ本人を含んでいないことです。校訂者のゴティエの索引によると、アンナに関しては、この第4条に加えて、第71条(一族の命日の記念)、追加の第79条(修道院の増築部分の扱い)と第80条(修道院の保護者の選定)でも直接名前が挙げられています。とりわけ、アンナのケカリトメネ隠退後に書かれた追加2箇条では*13、アンナを取り巻く環境だけではなく、彼女と修道院の関係についても明らかになる点があるように見えるため、この点は次回以降に考えてみたいと思います。

2. parakellionとtropike

 第3段落「修道女食堂のアプスの裏手に建設され、付属の僧坊(παρακέλλιον)やその他この住居に必要な備品を備えた小さな屋敷(τροπική)」の「付属の僧坊(parakellion)」「屋敷(tropike)」については、さしあたりこのような訳語を当ててはみましたが、どういった建物ないし部屋が含意されているのか、ここだけではよくわかりませんでした。

 まずparakellionに関しては、素朴に字面を見れば「傍らの(para-)僧坊(kellion)」ないし「僧坊の傍らの(建物/部屋)」ということではないかと思いますが、この箇所の英訳を見ると「手洗い場/厠 lavatory」となっています*14。索引によると、同史料集の中でparakellionという語は、この箇所の他に、同じケカリトメネの規約末尾の、修道院の領域を定めた箇所にしか出ていないようです。そちらの訳もlavatoryになっていますが、いずれの箇所においても、訳者のロバート・ジョーダンはこの訳語について特に注記をしていません。

 一方、校訂者のポール・ゴティエは、第4条のparakellionに関しては、「隣接する僧坊cellule adjacente」という訳を当てつつ、末尾のそれについては「厠 latrines」としています。後者に対する注でゴティエは、フランスのサン・モール会士、ベルナール・ド・モンフォコンによる同じ箇所への注釈に触れています。

 モンフォコンは、「parakelia」が後期(infimum aevum)のギリシア語で「厠(latrina)」を意味していることから、parakellionもそのように解釈しうるのではないかと述べています*15。ただし、このモンフォコンも、第4条のparakellionについては「それ〔=屋敷〕に接続する僧坊(cellula sibi adjuncta)」というラテン語訳を当てているので*16、ここではゴティエもそれを踏襲しているといえます。

 さらに、この第4条のparakellionの直前には、接頭辞のない「僧坊(kellion)」という語が使われています。そのことも考え合わせると、やはり現段階では、こと第4条のpalakellionに関しては、前述の「僧坊」と同一あるいは対応する建物/部屋と理解した方がよく、英訳のように「手洗い場/厠」とするのは踏み込みすぎなのではないかと感じてしまいます。

 また、「屋敷(tropike)」に関しても、エイレーネーの孫娘(あるいは貴族女性)が修道生活を送る特別な建物という以外に、具体的にどのようなものなのか、第4条からははっきりしません。研究者たちにもこの箇所でのtropikeの語義がよくわかっていないらしく、ジョーダン、ゴティエともに訳さずそのままにしています。ゴティエの方は、アプスを備えた建物を想定し、東屋(kiosque)のようなものではないかと述べています*17

 一方『歴史学の慰め』では、このtropikeが「屋敷」と呼ばれていたため*18、今回はこの表現を仮に用いることにしました。いずれにせよ、皇族・貴族の出身の修道女が生活する特別な建物を指してこの単語が使われていることは間違いないと思われます。この建物と第79条で触れられている増築部分がどのような関係にあるのかが気になるところです。

3. 男子禁制と外部との交流

 修道院は男子禁制で、皇族といえども招き入れてはならないという規定がありますが、先にも述べたとおり、実際にはケカリトメネにいるアンナやエイレーネーと男性の文人たちの交流が知られています。規則が厳密に運用されていなかったということなのでしょうか。それとも交流のあり方がこれに抵触しないものだったのでしょうか。現在個人的には後者なのではないかと思っていますが、読み進めるうちに考えが変わるかもしれないので、ある程度まとまったら記事にしたいと思います。

次回予告

 これらの疑問を念頭に起きつつ、次回は第79条を読んでみたいと思います。ブログとしては、途中までの訳になっても、また調べたことの簡単なまとめやご指摘への反応だけになっても構わないので、1ヶ月以内に何かしらの更新を行うことをまずは目標とします。手探りで進めていくことにはなりますが、温かく見守っていただければ幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。

参考文献

Gautier, P.(ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165.

Jordan, R., "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724.

Montfaucon, B. de (ed.), "Irenes Augustae typicum sive regula" in J.-P. Migne (ed.), Patrologia Graeca 127, 1864, coll. 985-1128.

 

井上浩一『歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品』(白水社、2020年)

 

*1:頻度は検討中ですが、無理のない範囲で、かつ定期的に何かしらアップデートできる方法を模索しています。

*2:生年に関しては井上浩一『歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品』12~13頁、没年に関しては同書164~165頁。

*3:邦訳は相野洋三訳『アレクシアス』(2019年、悠書館)

*4:133~136頁。

*5:歴史学の慰め』特に121~136頁。

*6:歴史学の慰め』126~127、161~162頁。

*7:P. Gautier(ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165  https://www.persee.fr/doc/rebyz_0766-5598_1985_num_43_1_2170

*8:R. Jordan, "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724オープンアクセスの史料集。以下よりpdfがダウンロードできる。 Byzantine Monastic Foundation Documents — Dumbarton Oaks

*9:マリアはアンナの妹。

*10:後者は他の修道院から移ってくる修道女のことか。

*11:「課題と疑問点」2を参照

*12:「課題と疑問点」3を参照

*13:追加2箇条の年代は1120年代と推定されている(底本p. 14)。

*14:英訳p. 670

*15:底本p. 146, n.8、Patrologia Graeca 127, col. 1118. n. 4

*16:PG 127, col. 1010A

*17:英訳p. 670、底本p. 37 n. 32

*18:歴史学の慰め』126頁。