『ケカリトメネ修道院規約』 第3条 試訳(保護者)

 長い間労働などに気力を取られていましたが、アンナ・コムネナへの興味が再燃する心境の変化を受け、更新を再開します。今度は門番に関する規定を読みたいと前回は言っていたのですが、予定を変更してアンナとケカリトメネ修道院の関係に関わる第3条を読みます。ケカリトメネ修道院についてのおさらいは過去記事をご参照ください。

目次

第3条について

 第3条は、修道院の保護者の役割について定めた条文です。 ケカリトメネ修道院の規約では、保護者は「antilambanomenē*1」、あるいは「antilēpsis/ephoreiaを有する者*2」、等の表現で呼ばれています。ケカリトメネ修道院の保護者は、修道院長とは別人で、創設者であるエイレーネーの死後、彼女の意向に基づいて代々任命されることになっていました。第3条ではエイレーネー没後の保護者として、当時既にケカリトメネの修道女となっていた娘のエウドキアが指名されていますが、保護者は特に修道女である必要はありませんでした。後にエウドキアがエイレーネーよりも先に亡くなってしまったことを受けて定められた第80条では、修道生活の場とは隔てられた屋敷に居住するアンナ、およびその子孫が代々この職を受け継いでいくことが定められています。

 このように、ビザンツの裕福な俗人によって創設、復興された修道院では、創設者の一族が修道院の運営に代々関わることがありました。例えば、奇しくもアンナと同じく歴史家として知られ、11世紀中頃に官僚として活躍したミカエル・アッタレイアテスは、1077年に、それまでに自身の親族から買い集めた不動産を用いてコンスタンティノープル修道院とライデストス(現在のテキルダー)の救貧施設からなる複合体を設立し、その運営を自身の子孫に託しています。このときアッタレイアテスの起草した設立文書では、施設の運営にあたる子孫たちは、施設に対して比較的強力な権力と利権を与えられています。とりわけ、設立者の直系子孫が救貧施設の「施設長(ptōchotrophos)」として運営にあたっている間は、彼らは施設の所領などから生じる収入から所定の運営上の支出を差し引いた利益の3分の2を獲得することができるとされていました*3修道院規約の英訳史料集の編者の一人であるトマスはこの記述を、「創設者とその相続人たちが私設宗教施設の『余剰』収入の一部を受け取る権利を、ビザンツ史料の中で最も露骨に証言したものである」と評価しています*4。また、アッタレイアテスのケースを分析した大月康弘氏は、11世紀中葉という政情の不安定な時代にあって、慈善施設や修道院のように、皇帝と政治的な対立が生じたとしても容易に介入を受けることのない神聖化された財産という形式が、家産を一体的かつ永続的に管理したい貴族の希望にかなっていた可能性を指摘しています*5。このように、俗人による修道院設立には、自身や子孫のための安定した資産を築く行為という側面もありました。

 しかし、アッタレイアテスの設立文書とケカリトメネ修道院の規約を比較すると、俗人保護者の権限には差異があることに注意する必要があります。前者の場合、先に述べた通りアッタレイアテスの直系子孫は、修道院のものも含めた収益の3分の2を受け取ることができました。他方、ケカリトメネ修道院の保護者は、第3条によれば、修道院の会計について知ることすら許されていません。この背景には、10世紀後半から11世紀にかけて盛んであった、主に俗人が一定の期間修道院や教会施設の経営を行う代わりにそこから収益を獲得する「カリスティキア」という制度をめぐる政府、教会、修道共同体それぞれからの改革や規制の動きが関連しています*6。この動きの中では、俗人が修道院の運営から経済的利益を得ていることが特に問題視されることになりました*7。1077年のアッタレイアテスによる修道院創設と1100年代後半のケカリトメネ修道院建立の時期的な開きは30年ほどですが、トマスは、両者における保護者の権限の差異に触れたうえで、「保護者の権利として許容できる内容をめぐる当時の人々の考え方に対して、改革運動が劇的な変化を及ぼしたことは疑いない」と述べています*8

 以上の差異を踏まえると、ケカリトメネ修道院の建立にあたったエイレーネーが、保護者職から自身の子孫が経済的利益を得ることを実際にどの程度重視していたのかという点について、現段階では訳者にははっきりした考えが持てません。ケカリトメネの規約とアッタレイアテスの設立文書の共通点に注目するガラタリオトゥは、前者の保護者が葡萄畑や浴場を含む修道院の財産の占有権と用益権を有していたと述べていますが*9、ここで同氏が根拠に挙げている箇所は第79条の一部であり、その箇所で触れられているのは同条で問題とされている皇族屋敷をはじめとする部分のことで、修道院財産の全体ではないと思われます。浴場に関しては第79条で指定されている建物に含まれていますが、これらが収益を生む建物として想定されているのかどうかもよくわかりません。むしろ第79条は、確かにエイレーネーの子孫が断絶した後は修道院側が屋敷のある土地を住宅や畑に転用して収入を得ることを求めている一方で、それ以前の段階で居住者がこの土地を居住目的ではなく営利目的で使用することに対しては否定的な条文である印象を訳者は持っています。とはいえ、保護者に強力な権限がなくとも、エイレーネーの子孫たちの居住する屋敷が修道院財産となることで、本来であれば彼らの負担すべき税の一部が免除されうるなど、修道院から彼らが経済的な利益を期待できる要素は実際は十分にあったのかもしれません。また、保護者たちによってこの種の権限に関する規定が現実にどの程度守られたか(あるいは守られることをエイレーネーが想定していたか)についても、もしかすると懐疑的に見る必要があるかもしれません。

 アッタレイアテスの例から修道院創設の経済的な側面に話が及びましたが、当然、ビザンツの人々にとって自身の一族の収入源を確保することだけが修道院を創設する動機だったわけではなく、宗教的な側面も同様に、もしくはそれ以上に重要であったと考えられます。例えば、今回訳したケカリトメネの第3条でも、修道院の保護者の名前が祈りの際に唱えられ、過去帳に記載されるということが明記されています。コムネノス朝の皇族女性の修道院建設について論じたディミトロプルによると、清らかな修道士や修道女たちが、過去帳に名前の記載された創設者とその家族のために将来にわたって祈り続けることも、修道院の建設という敬虔な行いに創設者の富が投じられることや、そこで修道生活を送る人々によって困窮した人々のための慈善活動が行われることと並んで、創設者らの生前の罪が清められ、修道院の奉献を受けたキリストやマリアなどが、最後の審判の際に彼らの救済のためのとりなしを行うことに結びつく行為と考えられていました*10

  最後に、この第3条では、エイレーネーの遺言が規約と同等の効力を持ち、規約の内容が遺言によって上書きされうるということが述べられています。遺言が古代ローマ以来、法的・社会的に確固たる地位を占める制度であったのに対し、修道院の設立文書が多くみられるようになったのは、10世紀以来のことです。この時期に文書化された規約の作成が広く行われるようになった背景には、やはりカリスティキアの広がりがあったと考えられています。ガラタリオトゥは、同制度に基づくものを含めた外部からの権利侵害に対して修道院の独立性を守る必要性が高まったことから、その手段として法廷で示されうる設立文書が用いられたと説明していますが、同氏によれば、実際にこうした設立文書が法廷においてどの程度修道院の権利保護に役立ったかは明らかではありません*11。第3条のこの記述は、修道院の構成員や代々の保護者に対して遺言を規約と同様に尊重し、実施することを求めるものであったといえますが、それと同時に、エイレーネーらの念頭には、逆にこの規約の方も法的に遺言と同等の重みを持つべきであるという主張もあったのかもしれません。

訳文を読む上での注意点

 底本として、ゴティエによる校訂を使用し、適宜英訳を参照しています。

 また、訳文の段落分けは訳者によるもので、訳文の作成にあたって訳者が補った単語は〔〕で表示しています。構文・語義の解釈に特に不安のある部分は青字で示し、原語を付記しています。

『ケカリトメネ修道院規約』第3条 試訳(底本33-35頁、英訳669-670頁)

「当修道院の保護職(ἀντίληψις)に任じられた者たちについて、また、私の遺言によって当修道院に関して定められたことは、本規約と同等の効力を持ち、かつ本規約は永久に改変や歪曲がなされてはならないということについて」

 

 我々両名〔=エイレーネーとアレクシオス1世の夫婦〕の現世からの離別の後も、この恩寵に満たされし〔=ケカリトメネ〕生神女修道院が保護者に事欠かないよう、私が取り計らう必要がある。そうすることにより、〔修道院が〕何の保護や安全によっても守られていないがゆえに、他者の財産を奪う者たちによる略奪が生じるということがないようにするのである。それゆえ私はこれを実行し、最善の措置を考え以下のように望む。すなわち、我が愛しき娘にして緋色の生まれの修道女、エウドキア殿が*12、当院を管理し、扶助し、擁護し、当院に対して悪意ある行動を取る者たちを斥け、また本規約の一部に対して違反がなされるおそれがある際にはこれを防止するのである。なぜなら、彼女は修道女であり、当修道院にとどまり続ける予定のためである。しかし、彼女の来世への離別の後は、本規約において行われる追加を通じて、あるいは遺言の何らかの文書を通じて、私がこの権利を与えた者たちが、当修道院の管理(ἐφορεία)と保護(ἀντίληψις)の職につく*13

 というのも、私が自身の遺言において当修道院とそれに属するあらゆるものに関して定めることについて、私はそれらもまた、私のこの規約に書かれていたも同然に効力を持ち、かつここに定められていることと同様に永久に不変であり続けるよう望んでいるためである。さらに、ここに書かれたことのうちの何かを遺言上で変更することを私が望んだ場合には、私にはそうすることが完全に可能である。またその場合、当修道院のことについて両者〔=規約と遺言〕を通じて私が定めたことは全て、ここに書かれたことの一部が私の遺言によって上述のように〔効力の〕停止を受けている場合を除いて、等しく強い効力を持つのであるから、私のこの規約と私の遺言との間にはいかなる違いも了解されることがない。

 以上の理由により、当修道院を保護することを私に認められた者たちは何人も、院内の何かに権力を及ぼしたり、本規約の一部を改変したり、修道院長を交代させたり、修道女の任命、加入、排除を行ったり、修道院長自身や財産管理人や修道女のうちの何者かに対して、彼らが統括、計画している事柄の何らかの会計報告を課したり、収入や支出を知らせるよう要求することや当修道院から何かを受け取ろうとすることを試みたり、何であれ私物化することや命令下に置くことを試みたりしてはならない。というのも私は、当修道院とそれに属するあらゆるものを本規約の範囲内で管理することを、修道院長と修道女たちに任せているためである。

 私は以下の目的で先述の者たち〔=保護者〕を当修道院に置くのである。すなわち、修道院とそれに属するものを扶助し、管理するとともに、互いに揉め事を起こしている修道女がいれば和解させるということ、また修道院の権利を侵害したり、本規約に定められていることに違反したりしようと望む者たちを寄せつけないということである。彼女たち〔=保護者〕は、当修道院において毎日記念され、死後には聖なる帳面に書き留められるだけで十分である。というのも私は、自身のこの規約が、乱されることも侵害されることもなく、永久に効力を持ち続けることを望んでいるのである。すなわち、もし仮に修道院長や当修道院の保護者によって、より強力な命令や措置が導入され、それによって修道院とこれに属するものがこの上なく大きな利益と非常に強力な地歩を得るようなことがあったとしても、ここに述べられていることや今後述べられるであろうことは何一つ、いかなる方法によっても違反を被ることはなく、いかなる瞬間においても、また何人によっても、変更を受けることがないのである。

要旨

・エイレーネーとアレクシオス1世の死後は保護者を置く
 ・目的は修道院規約の遵守と修道院の権利侵害の防止
 ・初代の保護者はエイレーネーの娘で修道女のエウドキアが務める
  ・エウドキアの死後については、追加条項や遺言で別途定める
  ・エイレーネーの遺言は規約を上書きでき、規約と同等の効力を持つ
・保護者への禁止事項
 ・規約の改変
 ・修道院長の交代
 ・修道女の任命、加入、排除
 ・修道院の会計について知ること
 ・修道院の財産の私物化
 ・修道院の運営への介入
・保護者の役割
 ・修道院の扶助・管理
 ・修道共同体内の紛争調停
 ・権利侵害と規約違反の防止
 ・修道女から記念を受ける
修道院長や保護者による規約の変更・違反の禁止

次回予告

  次回は、エウドキアの早世を受け、アンナが保護者に就任するようエイレーネーが改めて定めた第80条を読みたいと思います。

参考文献

Gautier, P.(ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165.
Jordan, R., "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724.

 

井上浩一『歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品』白水社、2020年。

大月康弘『帝国と慈善 ビザンツ創文社、2005年。

Dimitropoulou, V., "Imperial Women Founders and Refounders in Komnenian Constantinople," in M. Mullett (ed.), Founders and Refounders of Byzantine Monasteries, Belfast, 2007, pp. 87-106. (pdfの92-93頁欠落)

Galatariotou, C., "Byzantine Ktetorika Typika: A Comparative Study," Revue des études byzantines 45, 1987, pp. 77-138.

 

今回参照できませんでしたが、ビザンツにおける俗人による修道院創設については、J. P. Thomas, Private Religious Foundations in the Byzantine Empire, Washington, D. C., 1988 が重要かつ基本的な文献のようです。

注釈

*1:ギリシア語で「掴む」「味方する」等を意味する動詞「antilambanō」の分詞の女性形。英訳では他の規約との整合性も考慮してかprotectressと訳されているため、ここでもそれに則り「保護者」とする。

*2:antilēpsisはantilambanōすることを意味する名詞、ephoreiaは同じく修道院の保護者に用いられる用語であったephorosに対応する抽象的な名詞。Oxford Dictionary of Byzantiumでは修道院の保護者は"ephoros"で立項されている。

*3:大月康弘『帝国と慈善 ビザンツ創文社、2005年、149頁、J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, p. 345.

*4:Thomas, Hero, p. 329.

*5:大月、151-152頁。

*6:カリスティキアについて、より詳しくは修道院の独立性を定めた第1条などを読む際に触れたい。

*7:大月、252-253頁。

*8:Thomas, Hero, pp. 610-611.

*9:C. Galatariotou, "Byzantine Ktetorika Typika: A Comparative Study," Revue des études byzantines 45, 1987, p. 103.

*10:V. Dimitropoulou, "Imperial Women Founders and Refounders in Komnenian Constantinople," in M. Mullett (ed.), Founders and Refounders of Byzantine Monasteries, Belfast, 2007, pp. 95-99.

*11:Galatariotou, pp. 87-88.

*12:エウドキアは夫イアシテスの暴力に苦しみ、離縁して修道院に入っていた(井上浩一『歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品』白水社、2020年、128頁。)。

*13:エウドキアはこの後早世し、エイレーネーは後に第80条を追加して、アンナやその子孫が代々保護者となるよう定める。