ブログ案内

 ビザンツ史に興味のある労働者によるブログです。月1回ぐらいのペースで自分なりに読んで面白かった史料を訳したり、文献を紹介したりしていければと思っています。内容については可能な範囲で正確を期するつもりですが、間違いや自信のない箇所もどうしても出てきてしまっています。ご指摘があれば検討の上修正を加えたいと思いますので、ご遠慮なくお問い合わせください。これまでに書いた記事の一覧は以下の通りです。

ケカリトメネ修道院規約 試訳

アンナ・コムネナが後半生を過ごした屋敷のあった修道院の規約です。

第3条(保護者)
第4条(皇族・貴族の修道女)
第17条(訪問者)
第18条(役職者の任命)
第29条(門番)
第74条(外部からの視線の排除)
第79条(エイレーネーとその子孫の住居)
第80条(保護者・追加規定)

底本:P. Gautier (ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165.
英訳(参考):R. Jordan, "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724. 

 

文献紹介

L. Neville, Anna Komnene: The Life and Work of a Medieval Historian, New York, 2016.

(本ブログはAmazonアソシエイト・プログラムに参加しています)

お知らせ

佐藤二葉『アンナ・コムネナ』第1巻刊行
佐藤二葉『アンナ・コムネナ』第2巻刊行

引用について

 そういった需要はまずないと思いますが、ここに掲載してある訳文を引用したいという場合は、典拠を明示していただければ連絡は不要です(訳文は後から断りなく修正する場合があります)。ただし、万が一レポートなどの調べ物の途中で辿り着いた学生の方がこのブログの内容を使いたいと思われた場合は、このブログの記述そのものではなく、引かれている文献を参考にするように(Wikipediaのケースと同様)していただきたいと思います。よくわからない場合は先生など指導者の方に相談してください。

お知らせ:佐藤二葉『アンナ・コムネナ』第3巻刊行

 本日、佐藤二葉さんの『アンナ・コムネナ』第3巻が発売されました。3巻ではいよいよアンナとヨハネスが本格的にいわば大人の領域に足を踏み入れていくことになりますが、そうした社会の仕組みを見定めてこれと向き合う姉と弟それぞれの覚悟と自信が本当に清々しく、早くもこの先を心待ちにしています。やはり巻を重ねると自然と作品世界が豊かになってきて、よく言われるようにキャラクターが自分で動くというのでしょうか、これまでの展開を存分に活かしつつ歴史学の知見をさらに自由に組み合わせた新鮮で爽やかな物語が繰り広げられています。

sai-zen-sen.jp

 今回の個人的な一押しのキャラクターはやはり従弟のアレクシオスでしょうか。彼にはどうかのびのびと幸せに暮らせる道があってほしいと願っています。ヨハネスの経験と成長を見ていても感じましたが、社会規範や性役割に対して自分が「向いている」かどうかを自問するようなタイミングは自分自身にも振り返れば色々とあったわけで、彼らの姿には読者としてどこか身につまされる部分もありました。

 後半のアンナの体験にも心を打たれました。地中海を越えた人や知識の移動がより活発になった11世紀から12世紀にかけての時期は、ノルマン人や十字軍の到来のように、ビザンツ帝国にとっては必ずしも好ましくない新たな変化が起こった時代でもあったのではないかと思います。しかしそこに暮らす個々人に思いを馳せてみれば、それはかつては想像もできなかった世界が目の前に開ける時代でもあったかもしれず、そうした時代の息吹が境界や立場を越えてビザンツ皇女のアンナという人に強さと決意を与える展開は痛快で目が覚めるようでした。

 3巻の刊行に際しても微力ながら校正のお手伝いをさせていただきました。私は専門家ではないので、「とにかく他人の目が入ることに意味がある」と自分に言い聞かせながら毎回重箱の隅をつつくようなやり取りばかりしてしまうのですが、そのたびに、細かい台詞の背景にある当時の事実関係や社会の仕組みに関する史料や研究に佐藤さんが非常に注意を払いながら物語の世界を組み立てておられることを実感します。ぜひとも多くの人に『アンナ・コムネナ』はもちろんのこと、巻末の参考文献を手に取って、この作品を何重にも楽しんでほしいと思っています。

 末筆ながら、今回も貴重で刺激的な機会を下さった佐藤二葉さん、素敵に仕上がった御本をご恵贈下さった星海社様にお礼申し上げます。

『ケカリトメネ修道院規約』第18条 試訳(役職者の任命)

 気がつけば季節限定でやっているのかというぐらいの更新頻度になっていますが、続きを読みます。告知以外を完全に放置していたわけではなく、何度か単発の記事を書こうとはしていたのですが、必要な時間まで気力が続かずあまりうまくいきませんでした。働きながら続けることを目標としている一方で、あくまで趣味でやっていることである以上、書くことに好奇心を奉仕させるのではなく、好きに色々調べ物をして気が向いたら書くということを繰り返していくのが王道なのかもしれない、と思い直しています。

目次

既訳条文の一覧はこちら

第18条について 

役職者の任命権

 第18条は、前回取り上げた門番を含めた役職者について、その任命の方法と儀礼の次第を定めるものです。ケカリトメネ修道院では、役職者の選任と任命は修道院長が行うことになっていました。ただし、すべてのビザンツ修道院修道院長が役職者を任命していたわけではなく、例えば14世紀にミカエル8世の姪のテオドラ・シュナデネが建立したベバイア・エルピス修道院のように、役職者の多くを修道女たちが自ら選出すると定められている修道院もあったようです*1

 また、こうした任命権者の規定はあくまで「かくあるべし」というルールにすぎないことにも注意する必要があります。現実にその任命権者がルール通り権利を行使することが円満にできていたかどうかを知るためには、規範史料である修道院の規約を見るだけでは本来十分ではなく、聖人伝あるいは典礼に関する規定といった、異なる角度から修道院の運営や生活の実情に言及している史料を参照することが必要です。実際、例えば11世紀に活躍した新神学者シメオンの『講話』では、役職を求める修道士たちが徒党を組んで修道院長に任命を迫る事例が言及されている(詳細は今回調べきれず)ということです*2。ケカリトメネ修道院の規約にも、修道院長や役職者の任命にあたって争いや情実が差し挟まれることがないよう定める規定(第12条)が設けられています。こうした条文の存在もまた、当時の修道院の創設者や指導者が、人事をめぐるトラブルは実際に起こりうる事態であると認識していたということを示しているといえます。

 修道院の中にあった序列や区分は役職だけではありませんでした。そして、それらのあり方もまた各修道院の事情によって異なっていました。ケカリトメネ修道院では、すでに第4条で見たように、創設者エイレーネーの孫娘や貴族出身の修道女は特権的な生活を認められていました。また、例えば数百人規模の修道共同体を有していたストゥディオス修道院について、クラウスミュラーは、役職の有無、聖職者として叙階されているか否か、服装の格式の上下という、合わせて三種類の区分が規約上で入り組んでいたとしています。加えて同修道院では、院長対修道士ではなく、修道士間の奉仕・指導関係も、制度的な裏付けはともかく実態としては行われていました*3

任命の儀式

 第18条ではまた、役職者の任命の儀式の次第についても述べられています。役職者は聖三祝文が朗唱された後に進み出て*4、まずはおそらく内陣の前の生神女マリアのイコンに対して三度跪きます*5。そして、その前に置かれた自身の役職に関する規約条文の写しを受領します。このとき、門番のように職務に鍵の取り扱いが付随する役職の場合は、任命を受ける修道女はその鍵も同時に受領するものとされています。その後彼女は修道院長に対して平伏して立ち上がり、頭を下げて任命の言葉(「汚れなく恩寵に満たされし〔=ケカリトメネ〕生神女があなたをこの役職に指名する」)を受けることになっていました。

 以上の儀式の中で、修道女が鍵を受け取った後に行う平伏の動作は、ビザンツ初期の修道院では同輩に対する懺悔の意味合いの強いものでしたが、後に転じて広く敬意や服従を示すのに用いられるようになりました*6。平伏はまた、修道院の備品の破損などに対する罰としても用いられることがありました。例えばストゥディオス修道院の罰則集では、陶器の水差しを割ってしまった修道士に対して100回から300回の平伏が課せられており、見方によっては体罰のような様相を呈しています*7。平伏する修道士の姿は図像の中にも残されています。例えば、ストゥディオス修道院で制作され、現在は大英図書館に所蔵されている写本『テオドロス詩篇』の挿絵では、修道士たちが新たに選出された修道院長に対して平伏する姿が描かれています

 平伏を終えて立ち上がった役職者に対し、修道院長は「生神女があなたをこの役職に任命する」という言葉をかけます。現実には修道院長が決定を行っているにもかかわらず、生神女マリアによる任命という理念が語られる、こうしたある種の二重性は、当の修道院長の選任においてはさらに注目すべきものとなります。というのも、とりわけ修道院長を修道女や修道士たちが自ら選出する修道院の場合、「修道院長の権威の淵源はどこか」という問題は、修道院長とその他のメンバーとの力関係にも関わってくるからです。この点については、クラウスミュラーが先の『テオドロス詩篇』の図像などを用いて論じていますが、詳しくは修道院長の任命について定めた第11条を読む際などに紹介したいと思います。いずれにせよ、役職者に任命される修道女は儀式に際しては生神女マリアと修道院長の双方に服従の意を示し、職務の遂行にあたっては両者に対して誠実であることが求められたといえるでしょう。

訳文を読む上での注意点

 底本として、ゴティエによる校訂を使用し、適宜英訳を参照しています。

 また、訳文の段落分けは訳者によるもので、訳文の作成にあたって訳者が補った単語は〔〕で表示しています。構文・語義の解釈に特に不安のある部分は青字で示し、原語を付記しています。

『ケカリトメネ修道院規約』第18条 試訳(底本62~65頁、英訳680頁)

「役職者たちの任命が、何者によって、いかにして行われるべきかについて」

 当修道院の役職者たちの選定と任命は、修道院長が自身の考えのもとに選定し、任命することによって行う。すなわち、ある者が何らかの役職に任命されることが必要な際は、まず鍵が聖なる内陣の前に置かれるとともに*8、その役職についての文言が私のこの規約から書き写され、それらとともに〔置かれる〕。そして聖三祝文が唱えられると、役職に指名された者が進み出る。彼女は三度跪いて鍵を取った後、修道院長に頭を下げるが、その前に修道院長の足の前に平伏して立ち上がる。修道院長は以下の言葉をかけることによって彼女を任命する。「汚れなく恩寵に満たされし〔=ケカリトメネ〕生神女があなたをこの役職に指名する」。しかし、鍵の伴わない役職については、修道院長によって言い渡される任命の文句と、聖なる内陣の前の場所から前述の各役職に関して書かれた規定を受け取ることで十分である。

 また、〔新任ではない他の〕役職者たちも同じく、彼女ら各人に任せられた役職に関する個別の規定〔の写し〕を聖なる内陣の前の場所から受領する必要がある。これにより彼女らは、〔各人が〕どこから役職を受けているか、およびどのように役職の遂行を約束しているかを〔改めて〕知るのである。

次回予告

 次回は第19条以下のその他の役職者に関する規定、もしくは第14条の財産管理人に関する規定を読みたいと思っています。年明けに記事の原型を書いた頃には、次は修道院長の任命について定めている第11条、もしくは修道院長や役職者の選出にあたっての混乱を戒める第12条を読みたいと思っていたのですが、一年近く寝かせてしまうとやはり関心も変わっているものです。

 関心の変化といえば、当初はアンナ・コムネナの後半生について知りたくてこの修道院規約を読み始めたわけですが、そのことがきっかけで最近はむしろビザンツの社会やコンスタンティノープルの人々の生活に対する興味が大変深まってきています。社会人になってビザンツギリシア語からだんだんと縁遠くなっていく寂しい予感に抵抗しようと細々と始めた調べ物が昔よりも自分の視野を着実に広げていることを感じるとき、手探りながらこの試みに取り組んでみて良かったという思いを新たにします。

参考文献

Gautier, P. (ed.), "Le typikon de la Théotokos Evergétis," Revue des études byzantines 40, 1982, pp. 5-101.
Gautier, P. (ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165.
Jordan, R., "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724.
Migne, J.-P. (ed.), Patrologia Graeca, vol. 99, Paris, 1860.

 

Krausmüller, D., "Abbots and Monks in Eleventh-Century Stoudios: An Analysis of Rituals of Installation and Their Depictions in Illuminated Manuscripts," Revue des études byzantines 64-65, 2006-2007, pp. 255-282.
Krausmüller, D., "Multiple Hierarchies: Servants and Masters, Monastic Officers, Ordained Monks, and Wearers of the Great and the Small Habit at the Stoudios Monastery (10th-11th Centuries)," Byzantinoslavica 74, 2016, pp. 92-114.
Talbot, A.-M., Varieties of Monastic Experience in Byzantium, 800-1453, Notre Dame, 2019.

 

 

注釈

*1:英訳、xxxi-xxxii頁。ジャイルズ・コンスタブルによる解説。

*2:D. Krausmüller, "Multiple Hierarchies: Servants and Masters, Monastic Officers, Ordained Monks, and Wearers of the Great and the Small Habit at the Stoudios Monastery (10th-11th Centuries)," Byzantinoslavica 74, 2016, p. 99.

*3:D. Krausmüller, "Multiple Hierarchies".

*4:聖三祝文は「聖なる神よ、聖なる強者よ、聖なる不死者よ、我らを憐れみたまえ」という内容の祈りの言葉。「聖なる強者」と「聖なる不死者」はそれぞれキリストと聖霊聖神)を指す。文言や解釈のあり方は古代末期に議論の対象となっていたが、ここで扱っているコムネノス朝時代には既に以上の意味で理解されるようになっていた(R. F. Taft, "trisagion" in Oxford Dictionary of Byzantium.)。

*5:ここで最初に修道女が跪く対象がマリアのイコンであるということは第18条の中には明記されていないが、修道院長による任命の言葉にマリアが出てきていること、またエウエルゲティス修道院規約の役職者の任命に関する規定(第29条)に「鍵がキリストあるいはマリアのイコンの前に置かれ、任命される者は三度跪いてこれを受け取る」と書かれていることからそのように考えた。11世紀半ばに建立されたエウエルゲティス修道院の規約は、ケカリトメネ修道院も含めた後の多くの修道院の規約と一致する内容や文言を含んでおり、前者が後世に広範な影響を及ぼしたことが指摘されている。先に引いたエウエルゲティス規約第29条は、今回のケカリトメネ規約第18条と一致する文言を含んでいる。

*6:D. Krausmüller, "Abbots and Monks in Eleventh-Century Stoudios: An Analysis of Rituals of Installation and Their Depictions in Illuminated Manuscripts," Revue des études byzantines 64-65, 2006-2007, pp. 259-262.

*7:Migne, Patrologia Graeca, vol. 99, coll. 1737-1738; A.-M. Talbot, Varieties of Monastic Experience in Byzantium, 800-1453, pp. 22-24.

*8:ゴティエによればすなわち身廊と内陣を区切るイコノスタシスの前(底本63頁、注5)。

お知らせ:佐藤二葉『アンナ・コムネナ』第2巻刊行

 新年以来更新が滞っており恐縮です。調べ物は進めていたりするのですが、去年に比べて諸々忙しくなってしまったこともあり、なかなか記事を出すに至っていないのが現状です(下書きにある翻訳とは別に、単発の記事を近いうちに出したいと思っています)。

 

 さて、このたび、佐藤二葉さんの『アンナ・コムネナ』の第2巻が発売を迎えました。第1巻に引き続き、私も校正のお手伝いのようなことをさせていただいていたのですが、第2巻では前巻以上に重厚なストーリーが展開され、個人的には読んでいて倍ぐらいのボリュームに感じました(1巻はそもそもビザンツの人々や世界が漫画になって動いているということがあまりに嬉しく、勢いで一気に読んでしまったということもあると思います)。

 多くの人にとってネタバレにならないと思う範囲で個人的に推したい点を一つ挙げるとすれば、ツイ4の連載でも既に登場している、アンナの家庭教師のテオドロス・アネマスという人物です。彼から学ぶことを糧に、アンナや周囲の人々はいったいどのように変わっていくのか、そのことが今後にどのような影響を及ぼすのか、3巻以降にますます期待せざるを得ません。またそれ以上に、彼の存在を通じて私は、やはりこの作品は『アレクシアス』の著者としてのアンナ・コムネナとの対話の試みでもあるのだという実感を新たにしました。どうしても抽象的な言い方ばかりになってしまいますが、彼もまた、様々な意味でこの作品の醍醐味を感じられるキャラクターの一人だと思います。

 アネマスの良さもさることながら、アンナとニケフォロスをはじめとする登場人物同士の関係も当然深まっていきます。それと同時に、前巻に続き、それぞれの人物はこの帝国と社会の中で自身がどのようにあるべきかという問いに事あるごとに直面しており、そのことが作品を一層面白く、味わい深くしています。これまでの蓄積も丁寧に活かされているため、最初に述べたように分量に勝る読後感が得られるのではないでしょうか。今回も華麗なビザンツの世界を存分に味わうことのできる紙の本での入手が個人的にはお勧めです。

 こうして宣伝ばかりしているのも気が引けるので、今後もどうにか労働と折り合いをつけながら(それこそ『アンナ・コムネナ』がさらに楽しめるような)史料や研究を紹介する記事を用意していきたいと思っています。どうか見守っていただければ幸いです。最後になりましたが、前回に引き続き貴重な機会を下さった佐藤二葉さん、第2巻の見本をご恵贈下さいました星海社様に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

護国寺駅の改札に6/12(日)まで掲示されている気高いポスター。)

文献紹介:L. Neville, Anna Komnene: The Life and Work of a Medieval Historian, 2016.

 明けましておめでとうございます。新年なので新しいことに挑戦してみようということで、今回は史料ではなく、本の紹介を行いたいと思います。

 今回紹介するのは、佐藤二葉『アンナ・コムネナ』や井上浩一『歴史学の慰め』でも参考文献に挙げられている、L. Neville, Anna Komnene: The Life and Work of a Medieval Historian(『アンナ・コムネナ ある中世の歴史家の生涯と作品』)です。著者のレオノーラ・ネヴィル氏は、中期ビザンツの社会と文化を専門とする研究者で、アンナの夫であるニケフォロス・ブリュエンニオスに関する著作もあるほか、博士論文執筆時の指導教員は本邦でも『ビザンツ 驚くべき中世帝国』で知られるジュディス・ヘリン氏であるということです*1

 

(ちなみに、表紙にはなぜか聖ソフィア大聖堂にあるヨハネス2世の皇后エイレーネー(ピロシュカ)の肖像が使われています。アンナを描いたビザンツ期の図像は現代には伝わっていません。)

 

 さて、アンナ・コムネナの事績として最も広く知られているのは「『アレクシアス』を書いたこと」、そしてその次によく知られているのは「弟ヨハネスを排除して皇帝になろうとし、そして失敗したこと」ではないでしょうか。

 本書は、「権力への野心」「帝位への未練」といった、近代の歴史家によって『アレクシアス』をはじめとする史料から読み取られてきたアンナのイメージを見直すとともに、そういった過去のイメージに影響されて定着していた「ヨハネスとの対立」という理解についても根拠が薄弱なものと論じたうえで、12世紀ビザンツ宮廷で活躍した卓越した知識人としてのアンナの像を新たに描き出そうとする試みです。

 

 

 本書は二部構成となっており、第1部では『アレクシアス』、第2部ではアンナをめぐるその他の史料が検討されています。まず第1部で著者が中心的に取り上げるのは、『アレクシアス』に時折アンナが差し挟んでいる自身の身の上や感情についての述懐です。このような記述は、近代の研究者たちにとっては、客観的であるべき歴史記述からの稚拙な脱線、あるいはヨハネス2世との対立を経て自由と権力を奪われたアンナの境遇と遺恨を反映したもの、などといった評価が与えられることが多いものでした。

 しかし、これに対して著者は別の解釈を提示します。すなわち、以上のような記述は、ビザンツ社会においてアンナが歴史書を書くにあたって直面した課題に対処するための叙述戦略によるものであるという考え方です。第1章では議論の前提として、以下にやや詳しく紹介する通り、アンナの課題がどのようなものであったのかがビザンツにおけるジェンダーの観点と歴史記述の観点から整理されます。

 著者によればまず、男性性と権力が強力に結びついていたビザンツ社会では、男性が備えるべき美徳は自身の感情や欲望を制御する能力であり、女性の美徳は男性の権力に従い、これを支えることでした。そのため、女性が公的な活動を行う場合は、自身が女性でありながら男性に求められるのと同じように感情を制御できる美徳を備えた例外的な存在であることを示すか、もしくは逆に自身のか弱さや哀れさを感情的に訴えることで男性の援助や譲歩を引き出すかという、いずれにせよ男性性に権力が宿っていることを前提とした戦略が必要になったのだということを、著者は多様な史料を例に示します。そして、アンナもまた『アレクシアス』の中で伝統的な性役割に沿ったこうした戦略を用いていたということもここで予め確認されます。

 そのうえで、古代ギリシアからビザンツに至るまで、女性が歴史を書き、なおかつ優れた歴史家と見なされることは非常に困難であったと著者は主張します。というのも、伝統的に歴史家の役割は、自身の経験や調査に基づき、後世に伝えるに値する人々の行為を記録することだと考えられていたため、当時は家庭にとどまるべきとされていた女性にとっては、政治や軍事の経験を持つことはもとより、調査のために外出したり男性と交流を持ったりすることも、少なくとも理念上は不適切であったためです。

 他方で、男性も含めた当時の歴史家一般につきまとう問題にも著者は目を向けます。すなわち、古代からの文化的伝統の中では、歴史家が後世知られるに値する事績とそうでない出来事を判断するという行為や、歴史家に限らずある人が著作や弁論の形で自らの言葉を人々に聞かせるという行為は、大変な傲慢さを伴いうる行為であると考えられていました。そのため、歴史家はそのような価値判断を行うために十分な知識や教養に加えて人格が求められると同時に、そうした立場に立つことの傲慢さを中和するための謙遜を著作の各所に差し挟む必要がありました。

 こうした歴史記述に伴う問題は、女性であるアンナにとってはより深刻で複雑なものとなりました。自身の著作を説得力のあるものとするためには、彼女は男性に劣らず政治や軍事を論じる能力を自身が持っていることを示すという、傲慢なうえに当時の女性の領分を逸脱した態度を取らざるをえませんでした。その一方で彼女は、自身の人格が女性として優れた謙虚なものであること、そして自身の振る舞いが女性にふさわしいものであることも同時に明らかにしなければなりませんでした。このように、読者から見て「よき歴史家」であることと「よき女性」であることを両立させるという困難な課題を抱えながら、アンナは『アレクシアス』を執筆することになりました。

 以上の前提のもとに、著者は『アレクシアス』におけるアンナの記述を具体的に分析していきます。第2章では、『アレクシアス』の序文を検討し、そこでアンナが高い教養や能力の顕示を行うと同時に、それに均衡する卑下と女性性の表明を、寡婦としての哀悼を語ることによって行っていたことが示されます。また第3章では、歴史家は公正でなければならないという要請と、娘は父に従うべきであるという規範の間で、アンナがいかに皇帝であり父親であるアレクシオス1世を描写したかということが論じられます。

 第4章では著者は、『アレクシアス』における家族の死や自身の不幸に対する嘆きの表現に注目します。そのうえで、こうした嘆きは古代以来女性が自身のことを語る際に用いられる文学的な類型に則ったものであり、アンナが女性としてあるべき姿に従っていることを読者に示すとともに、かえってそれ以外の箇所では彼女が感情を抑えて理性的に歴史を書くことができていることを印象づけるものであったとしています。

 第5章では、歴史家は信頼できる偏りのない情報源をもとに調査を行うべきであるという課題と、女性は家庭にとどまり政治に関わるべきではないという制約という、これまた二つの矛盾する要求を満たすためにアンナがとった戦略が検討されます。『アレクシアス』に見られる、ビザンツの歴史書としては珍しい原史料の明確な引用や、アンナ自身が哀れな隠遁の身であるという言明もまた、中立性や女性性をアンナが守っていることを示すための方策としてここでは位置づけられます。

 以上で見たように、著者は第1部における『アレクシアス』の分析を通じて、アンナは自身の歴史が信頼のおけるものとして受け入れられるよう努める一方で、歴史を書く、しかも女性が書くということによって生じる傲慢なイメージを打ち消すべく、女性らしく謙虚で哀れな自身の姿を様々な方法で意識的に示しているのだと主張します。なお、一応誤解のないよう申し添えておくと、著者がここで論じているのはあくまで「アンナが『アレクシアス』で自分自身をどのように表現し、どのような印象を当時の読者に与えようとしていたか」ということであり、それは「アンナが実際にどのような性格の人であり、どのような思いを持っていたか」ということとはやや異なる問題です。

 

 

 一方、第2部で著者は、『アレクシアス』以外のアンナに関する史料を、従来の先入観を排して網羅的に再検討することで、弟の地位を狙う野心家ではなく、宮廷社会で活躍する知識人としてのアンナの姿を明らかにします。そして、第1部での分析にもかかわらず、なぜアンナが非常に野心的な人物としてのイメージを与えられてきたのかを近代の歴史家たちの著作を繙いて論じています。

 まず第6章では、アレクシオス1世からヨハネス2世への権力移行に言及したいくつかの史料が検討されます。記事の後半で詳しく見ますが、著者は、アンナをヨハネス2世に対する陰謀の当事者として明確に記述しているのはニケタス・コニアテスの『歴史』だけであることを確認したうえで、コニアテスによるアレクシオス1世の死を取り巻く出来事の記述に関しては、事実を反映したものとは考えられないと論じています。

 第7章では、ビザンツの宮廷社会で節目ごとに行われていた演説の中からアンナへの言及のあるものが検討され、アンナとニケフォロスの夫婦はアレクシオス1世の没後も変わらず宮廷社会で地位を保ち続け、有数の知識人として尊敬されていたことが明らかにされます。また第8章では、アンナが後半生を過ごした屋敷のあるケカリトメネ修道院の規約を主な手がかりに、アンナにとって修道院は近代以降にイメージされるような幽閉先ではないどころか唯一の居所ですらなく、自身が女性として自由に文化活動を行うための拠点であったことが示されます(この章に関しては以前にも紹介しています)。

 第9章ではアンナのヨハネスに対する憎悪や帝位への野心を史料上に見出すことができるかどうかが検証されます。著者は、『アレクシアス』の中でしばしばヨハネスへの悪意ある編集と受け止められている箇所の多くは、アンナがヨハネスを憎んでいたはずだという先入観がなければそのようには解釈できず、その他のヨハネスに対する批判についても、アンナはアンナなりに当時の政策論議の中で意見を持っていたのであって、動機を単なるヨハネスへの憎しみに求める必要はないと論じます。また、他の史料からもアンナとヨハネスの対立や、アンナの帝位への野心は窺うことができないと著者は結論づけます。

 以上の議論を踏まえた上で、第10章で著者はアンナに関する17世紀以降の歴史家による記述を豊富に引用しながら、従来の野心的なアンナのイメージは、シャルル・ルボー(Charles Lebeau)やエドワード・ギボンのような18世紀の歴史家が当時の限られた史料状況・研究状況の中で組み立てたものが、時に増幅されながら現代まで受け継がれてしまっているものであることを示します。

 すなわち、18世紀や19世紀の段階では、アンナの嘆きや卑下が著作内で持っている役割が適切に理解されず、それと対になる教養の顕示や家族への称賛などばかりが注目されたうえ、後者がコニアテスの伝えるヨハネスに対する陰謀の記事ともども額面通りに受け取られていました。そのため、歴史家としての傲慢さを打ち消す謙遜のためのものであったはずの記述に対しても、高慢で野心的なアンナが自身の境遇に向けた怒りが込められているという、全く異なる解釈がされることになりました。その結果、「弟の暗殺を企てた野心家で、陰謀の失敗により修道院に閉じ込められて恨み辛みを歴史書に書き連ねる女性」といったアンナのイメージが定着してしまったというのです。

 このようなイメージが作られ、温存されてきた要因として著者は、20世紀後半までトルニケスによるアンナ・コムネナ追悼演説をはじめとする多くの重要な史料が公刊されていなかったことや、ルボーやギボンの時代の歴史学では、史料の構成や表現方法が持つ意味と文化的背景を軽視して史料に書かれている字句を素朴に事実として受け止める傾向が現代よりも強かったこと、そして近代社会にも女性の政治活動・著作活動に対する偏見が、ビザンツ社会とはまた違った形で存在していたことなどを挙げています。

 こうした時代から、分析手法、学術文化、アンナの著述戦略に対する理解が変化を見た現代において、アンナは「挫折と憎しみを抱えた、血に飢えた陰謀家」ではなく、「当代随一の知識人の一人であり、歴史書の傑作を生み出すことに成功した女性」として立ち現れるのだ、と著者は本書の結びで述べています。



 以上のように、本書はビザンツのとりわけ社会や文学に対する近年の研究をもとに、旧来のアンナと『アレクシアス』のイメージを根本的に見直していく挑戦的な試みです。日本の読者にとっては近年のアンナに関しての文献といえば言うまでもなく井上浩一『歴史学の慰め』が第一に挙がると思うのですが、本書も『歴史学の慰め』も、それぞれ異なる角度からアンナについて論じており、様々な興味深い一致点と相違点があります。特に、後から出版された『歴史学の慰め』には、書名や著者名は挙げられていませんが本書の見解を批判していると思われる箇所も所々にみられるということもあり、二冊を合わせて読んでいただくと考えが深まって非常に面白いのではないかと思います。

 両者に共通する論点で意見の異なる箇所として目を引くのは、やはりアンナとヨハネスの対立に関する点です。例えば、『歴史学の慰め』では、アンナによるヨハネス殺害の陰謀は実際にあったという立場が取られていますが、本書の著者のネヴィル氏は、先に述べたように、アンナがヨハネスを暗殺しようとしたという説に対しては非常に懐疑的です。

 この事件に関する両者の立場の違いは、アレクシオス1世の死から100年近く後に書かれたニケタス・コニアテスの歴史書の記述に対する評価に主に由来しています。この歴史書は、事件を明確に伝える実質的に唯一の史料であり、アンナたちと同時代の史料にはアンナを当事者とする陰謀に関する記述は知られていません。

 ニケタス・コニアテスは、12世紀後半から13世紀初頭にかけて官僚として活躍した文人で、ヨハネス2世の治世から第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落前後の出来事までを扱った『歴史』を著しました。ネヴィル氏は本書の第6章で、1204年に訪れたこの破局を経験したコニアテスは、『歴史』をコムネノス一族の失敗による国家の衰退の物語として緻密に構成しているため、アンナの陰謀もその叙述の中でどのような役割を与えられているのかを検討すべきだとします。

 その上でネヴィル氏は、アンナの陰謀も含めたアレクシオス1世の死に伴う混乱は、著作全体の構成から見て前史の位置づけであるヨハネス2世治世のそのまた導入部にすぎないことを説明します。そのような場でコニアテスは本論並の忠実さで事実を伝えようとしているとは限らず、むしろ一族が互いに争い、家族および性別の役割が倒錯した、自然に反した家族としてのコムネノス家のイメージを、後に彼が書き記す諸問題の根源として意図的に描き出そうとしているのだと同氏は主張します。

 すなわち、実の息子を中傷し、娘婿ニケフォロスを皇帝にせよと死の床のアレクシオスに迫るエイレーネー、父母に敬意を払わず、アレクシオスの葬列に参加しないヨハネス、男性らしからぬ惰弱さから陰謀を失敗に終わらせるニケフォロス、自身と夫の肉体の構造について呪いの言葉を吐くアンナ、というように、当時の人々にとっては家族や性役割にあるまじき出来事が次々と起きるコムネノス家の有様を、コニアテスは著作の冒頭となる箇所で、時に卑猥な含みのある語彙を交えて描写することによって、その後も一族につきまとう悪徳を印象づけようとしているのだということをネヴィル氏は示します。

 ここに現れる不自然かつ不道徳な欲求を持った野心的な女性としてのアンナの姿もまた、この倒錯した家族像を構成する一人として都合よく作り上げられたもので、もしかするとアンナが女性として歴史書を書いたことも、コニアテスがこのようにアンナを描くことに一役買ったかもしれないとネヴィル氏は述べています。第6章の結びで同氏は、アンナの同時代人であるゾナラスの年代記をはじめ、ビザンツの史料が一様に問題視しているのは、むしろヨハネスがアレクシオスの死を待たずに歓呼を受けるために宮殿へ向かったことであるとしています。

 これに対して井上氏は、ヨハネス2世の建立したパントクラトール修道院の規約の中に、ヨハネスが「兄弟の和に背いた者たちを打倒」したという記述があることを指摘し、コニアテスの記述は、他のビザンツの歴史家の場合と同様、人物の発言などの細部に関しては創作や推測の可能性があるものの、事実関係に関しては信頼できると結論づけています*2

 なお、ネヴィル氏の方も、第6章ではヨハネス2世の即位にあたって何があったかということを明らかにすること自体が主目的ではないと断ったうえで、コニアテスの記述に対しては疑いを向けるものの、最終的に陰謀の有無について明確な結論を出すことは避けています。また、第9章の末尾ではヨハネス即位時に「起こったことが何であれ、ヨハネスの治世やアンナとニケフォロスの人生に対して長く残る影響は及ぼさなかっただろう」と同氏は述べています。アンナの宮廷社会との交流や修道院での生活に関する第7章と第8章を読む限り、この点に関してはその通りなのかもしれません。

 陰謀が事実かどうか以上にネヴィル氏が問題視しているのは、やはり第10章でも述べられている通り、近代以降コニアテスの記述が無批判に信頼されたうえでアンナのイメージが形成されてしまっていたことです。特に、このときの出来事を描写するための表現の各所にコニアテスがあえて含ませた卑俗さをルボーをはじめとする歴史家が脱色して伝えてしまったため、コニアテスの記述の性質や信頼性が正確に評価されてこなかったという指摘は重要であると思います。

 以上では本書の第6章でネヴィル氏が論じている陰謀事件の問題を例に上げましたが、第9章でネヴィル氏が述べているような、アンナとヨハネスの対立が史料上にみられないという議論についても、井上氏は様々な観点から反論しています*3。本書と『歴史学の慰め』を合わせて読んでみると、やはり全体的にネヴィル氏の分析はアンナの書き手としての活動に対するものが中心で、このこと自体は当然だと思うのですが、それでもアンナの前半生や皇女としての側面についてもう少し詳しく補足する議論があってもよかったのではないかという印象があります。

 陰謀の話が長くなってしまいましたが、他に読んでいて特に面白かった第7章についても少しだけ述べたいと思います。この章でネヴィル氏は、文人たちが作成した演説の中でアンナに言及しているものを多数分析しています。特に、章の後半で詳しく検討されている、トルニケスによるアンナの追悼演説は、女性であると同時に当代随一の知識人という異色の存在であったアンナを偲ぶにあたって彼が苦心の末に巧みに用いた構成やレトリックから、アンナの直面した性差の問題が浮き彫りになっており、広くビザンツにおけるジェンダーについて考えるうえでも大変重要な史料といえるのではないかと思います。他にも、12世紀末に書かれたアンナの孫のニケフォロス・コムネノスの追悼演説で、アンナがヒュパティアの教養とクレオパトラの高貴さを併せ持つ人物として称賛されているなど、多くの興味深い事例がこの章では紹介されています。

 最後に本書全体についてですが、総じて一般の読者に気を配った平易な表現と非常に丁寧な説明が心がけられている印象でした。丁寧なのは索引についても同様で、重要なキーワードに関しては、ただ単語の登場するページだけではなく、その事項について論じられているトピックごとにページ数の指示がされています。例えば、『アレクシアス』の項目には、「『アレクシアス』におけるアンナとヨハネスの関係」や「『アレクシアス』に関する近代の研究」といったポイントごとのページ数が挙げられている親切な構成になっています。

 著者の主張の中には、私自身そこまで理解や納得が及ばない部分もあり、また私の力量の問題でここでの紹介だけでは突飛に見えてしまうものもあったかもしれませんが、いずれも基本的にはより詳しい議論や根拠となる文献が提示されています。特に後半部分は章ごとに内容が分かれているので、気になる章から読んでみてもよいのではないかと思います(私もきちんと読んだのはケカリトメネ修道院を扱っている第8章からでした)。『アレクシアス』『歴史学の慰め』『アンナ・コムネナ』という近年の立て続けの出版を受け、よりアンナに関する知識や考えを深めたいと思っている人が次に読む本として本書はちょうどよいかもしれません。

 

 

 以上、今回は新しい試みとして研究文献の紹介を行いました。完全に『アンナ・コムネナ』刊行の勢いで着手したもので、今後も別の本の紹介をするかどうかはわかりませんが、今年も史料の翻訳も含めてその時々で自分の一番書きたい・書きやすい記事を定期的に出していければと思っているので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

*1:https://history.wisc.edu/people/neville-leonora/、およびリンク先CV。2022年1月1日閲覧。

*2:歴史学の慰め』112~116頁。

*3:例えば『歴史学の慰め』92~96頁、119頁など。

お知らせ:佐藤二葉『アンナ・コムネナ』第1巻刊行

 このブログではここまでアンナ・コムネナが晩年を過ごした屋敷のあったケカリトメネ修道院の規約を読んできているわけですが、このアンナを主人公とする佐藤二葉さんの漫画、『アンナ・コムネナ』の第1巻が星海社から刊行されることとなり、その発売が明日12月10日に迫っています。それに先立つ11月30日からは、ツイ4でも同作の連載が始まっています

 実はこの第1巻については、私もかねてからのご縁で調査などをほんの少しだけお手伝いさせていただきました。その経緯もあり、この記事も宣伝のつもりで書いています。その前提のうえで『アンナ・コムネナ』について言わせていただくと、やはり『アレクシアス』や『歴史学の慰め』をはじめとする史料や研究を踏まえながら、豪華なフルカラーの絵とともに丁寧に織り上げられた作品なのは言うまでもなく、その結果、アンナ夫婦をはじめとする人々も、一般にはさほど名の知られていない人物に至るまでみなそれぞれに魅力を与えられています。なお紙の本では*1、きらびやかで自信に満ちたアンナが圧倒的なパワーを放つ装丁もさることながら、ビザンツを特徴づける絢爛たる黄金や地中海の青空も一層美しく出ているので、是非手に取ってご覧になることをお勧めします。

 また、おそらく初めてビザンツを中心的に取り扱った日本語漫画作品が登場したということも『アンナ・コムネナ』刊行の意義の一つといえます。これまでに日本語で出版されたビザンツを舞台とする創作物は小説が中心で、例えば、翻訳ですが同じくアンナ・コムネナが主人公のトレーシー・バレット(山内智恵子訳)『緋色の皇女アンナ』、塩野七生コンスタンティノープルの陥落』、最近ではベリサリウスとプロコピオスが活躍する高橋祐一『緋色の玉座』などの作品を現在私たちは読むことができます。この流れに漫画が加わることで、これまで以上にビザンツをめぐる物語の世界が媒体を問わず広がっていくことを勝手に期待しています。

 一方、海外に目を向けると、近年のビザンツ漫画では、ロマノス2世およびニケフォロス2世の皇后テオファノが主人公のS. Theocharis, Theophano: A Byzantine Tale(バシレイオス2世が主人公の続編も近々出るそうです)、そして『ディゲニス・アクリタス』を原作としたDigenes(こちらは来年から本格的に刊行予定ということで、佐藤さんに教えていただきました)などが挙げられます。また、アンナに関連する小説では、アレクシオス1世の母親でアンナの祖母であるアンナ・ダラセナが主人公の小説E. Stephenson, Imperial Passions: The Porta Aureaが刊行されており、第2巻も今月出るということで、何やら中期ビザンツ創作がブームの様相を呈しているようにも見えます(もしかすると他の時代を扱ったものを私が知らないだけで言い過ぎかもしれません)。

 今は何より、佐藤二葉さんの描くアンナやその周りの人々の魅力が、西洋の歴史にさほど興味のない人たちも含めた多くの人の心に届くことを祈っています。ちなみに、同じく佐藤さんによる、古代ギリシアの実在の詩人エーリンナを主人公とした既刊『うたえ!エーリンナ』も、少し変わり者の少女が詩人を目指す熱く爽やかな青春の物語で(こちらも本編はツイ4に連載されたものが読めます)、こちらが面白く感じる方は『アンナ・コムネナ』も楽しく読めることは間違いないと思います。

sai-zen-sen.jp

*1:佐藤さんと星海社様のご厚意でご恵贈いただきました。改めてお礼申し上げます。

『ケカリトメネ修道院規約』 第29条 試訳(門番)

 今回は門番について定めた第29条を読みます。訳文自体は今年の頭にほぼできていたのですが、長い間寝かせることになってしまいました。世間は佐藤二葉さんの漫画『アンナ・コムネナ』出版の知らせで持ちきりですが、アンナ関連史料を訳出している(というか今のところそれしかない)ブログとしては応援しない手はないため、改めてお知らせの記事を出したいと思います。

目次

第29条について

 ケカリトメネ修道院規約の中で、第19条から第29条までの11箇条は、それぞれ修道女が就任する役職について定めたものです。これらの役職は、具体的には聖具管理係(skeuophylakissa)、聖堂長(ekklēsiarchissa)、食料管理係、ワイン管理係(oinochoēs)、穀物庫係(hōreiaria)、出納係(docheiaria、金銭担当と衣服担当の2名)、食堂係(trapezaria)、風紀監督(epistēmonarchissa)、作業監督(ergodotria、2名)、そして門番(pylōros)からなっています*1

 門番の役割は、日中に修道院の門の鍵を保管し(夕方に院長に返却)、院長の許可なく人の出入りが発生しないようにすることと定められています。門番の手元には修道院への外部からの来客について定めた第17条の写しが置かれるものとされていることから、ここでいう門とは、修道生活の場と修道院外の街路とを直接隔てるもので、第80条に出てくる皇族屋敷と禁域を区切るものとは異なるものと考えられます。

 門番の手元に置かれることが定められている鍵、そして規約の関係条項の写しは、役職者一般の任命方法について定めた第18条の中で、聖堂で行われる各役職者の任命の儀式の際にも使用されることになっており、役職の象徴としての役割も与えられています。

 門番の普段いる場所について、ケカリトメネ修道院の空間的構成についての記述を整理したミツィウは、門とは隔てられた門番用の建物があったと想定していますが*2、個人的には第29条の条文だけを見る限り、門番小屋のような特別な建物を想定することは難しいと思います。

 というのも、条文内では門番に対し、門に常駐するのではなく「aphōrismenosな建物(oikiskos)」にいるよう定める箇所があり、ミツィウの想定もこの記述を受けたものと思われるのですが、このaphōrismenosという単語については、「(境界で)区切られた」という原義の他に、転じて「特に定められた」という解釈も可能であり、実際、規約内でも先に触れた第18条に「定められた職務(diakonia aphōristheisa)」のように、空間的な分離を含意しない用法が見られます。

 加えて、問題の箇所では「彼女もまたaphōrismenosな建物で姉妹の共同体とともに座っている*3」「何であれ業務を完了し次第再び中に入って他の者たちとともに着席する*4」とされていること、さらに、門番は来客を受けて門へと出ていく前に一度修道院長の指示を仰ぎ、必要に応じて門へと出向いて再び戻るよう定められていることからも、ミツィウのようにaphōrismenosを原義に近い用法で捉え、門番があえて特別な建物に詰めていると考えるよりは、門番は他の修道女と同じく普段過ごすよう「指定された建物」にいると考える方が妥当ではないかと思います。

 最後に、ビザンツの女子修道院において、修道院長以下門番を含めた運営に関わる役職を女性が担っていたことについて、タルボットによる重要な指摘を紹介しておきたいと思います。同氏は、ビザンツの女性にとって女子修道院が、世俗社会ではほとんど閉ざされていた、自身の能力を活かすことのできる責任ある役割に就く機会を得られる数少ない場であったと述べています*5。中でも特に修道院長は、教会会議で自身の修道院の土地に関する権利をめぐる訴えを起こすなど、公的、政治的な活動も行っていたことを同氏は例示しています*6

 この、ビザンツでは修道院に入ることが女性にとって単に社会からの隠退ではなく、むしろある種の社会的地位の獲得という一面を持ちえたという点は、修道院の規約だけを読んでいると気づきにくく、また修道院すなわち社会と隔絶した場、という先入観によって見えなくなってしまいやすい部分でもあると思います(正直なところ訳者自身もあまり考えが及んでいませんでした)。前回触れた、アンナ・コムネナにとって修道院の保護者の地位やその敷地への居住が、男性の領域への進出を助けた可能性があるというネヴィルの議論とも関連する点といえるでしょう。

訳文を読む上での注意点

 底本として、ゴティエによる校訂を使用し、適宜英訳を参照しています。

 また、訳文の段落分けは訳者によるもので、訳文の作成にあたって訳者が補った単語は〔〕で表示しています。構文・語義の解釈に特に不安のある部分は青字で示し、原語を付記しています。

『ケカリトメネ修道院規約』第29条 試訳(底本75-76頁、英訳684-685頁)

「門番について」

 修道院長は、門の鍵を保管する女性(門番ともいう*7)をも任命しなければならない。その者はまた、院長の同意がない限り決して門が開かれないよう、まして院長に知られることなく何者かが修道院へ出入りすることもないよう配慮する。それゆえ、これらのことに関する条項で、どのように、いつ、どのような訪問者が修道女たちに面会すべきかを規定したもの〔=第17条〕が書き写され、彼女はこれを手元に置く。これにより、門番は本規約の条文を知った上で、院長に〔訪問者の来訪を〕知らせるとともに、院長の指示により、本規約の効力に基づいて面会が行われる。また、この役に任命される者は、敬虔な暮らしを送っており、かつこの姉妹の共同体全体から人品を保証されている老女でなければならない。彼女は、毎夕鍵を持ち込み、院長に渡す。また、自身との面会のためにやってきた親族と、院長の勧めなく会うこともなく、彼女の指示のもと、指示された通りの方法で彼らに面会する。しかしながら、彼女が門に常駐することを私は望まず、彼女もまた指定された建物で姉妹の共同体とともに座っているよう定める。そして、彼女が門の方へと呼ばれていることを鐘によって知らされ、門へと行く必要が生じた場合は、院長の命令によって出向き、何であれ業務を完了し次第再び中に入って他の者たちとともに着席する。

要旨

【門番の役割】
・日中の鍵の管理
・院長の許可なく人の出入りが発生しないようにすること
 ・門番は、人の出入りについて定めた規約第17条の写しを手元に置く
 ・門番自身の親族との面会にも院長の許可と指示が必要
・普段は他の修道女たちとともに過ごす
【門番の資格】
・敬虔かつ高齢であること

次回予告

 次回は修道院長による役職者の任命について定めた第18条を読みたいと思っています。

参考文献

Gautier, P.(ed.), "Le typikon de la Théotokos Kécharitôménè," Revue des études byzantines 43, 1985, pp. 5-165.
Jordan, R., "Kecharitomene: Typikon of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the Mother of God Kecharitomene in Constantinople" in J. Thomas, A. C. Hero (eds.), Byzantine Monastic Foundation Documents: A Complete Translation of the Surviving Founders' Typika and Testaments, Washington, D. C., 2000, pp. 649-724.

Mitsiou, E., "The Monastery of Kecharitomene and the Contribution of the Assumptionists to the Study of Female Monasticism in Byzantium," in M.-H. Blanchet and I.-A. Tudorie(eds.), L'apport des Assomptionnistes français aux études byzantines, Paris, 2017, pp. 327-344.
Talbot, A.-M., Varieties of Monastic Experience in Byzantium, 800-1453, Notre Dame, 2019.

注釈

*1:役職名の訳は仮のもので、該当条文を訳した際に変更する可能性あり。

*2:"a house set apart from the gate assigned to the doorkeeper," E. Mitsiou, "The Monastery of Kecharitomene and the Contribution of the Assumptionists to the Study of Female Monasticism in Byzantium," in M.-H. Blanchet and I.-A. Tudorie(eds.), L'apport des Assomptionnistes français aux études byzantines, Paris, 2017, pp. 336, 339.

*3:"καθῆσθαι καὶ αὐτὴν ἐν τῷ ἀφωρισμένῳ οἰκίσκῳ μετὰ τῆς ἀδελφότητος"

*4:"τὴν διακονίαν ὁποία ἐστὶ πληρώσασα εἰσελεύσεται αὖθις καὶ συγκαθεσθήσεται ταῖς λοιπαῖς"

*5:A.-M. Talbot, Varieties of Monastic Experience in Byzantium, 800-1453, Notre Dame, 2019, p.99.

*6:Talbot, p.85.

*7:写本(https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b10722867j/f75)右頁下から7行目を見る限り、ゴティエ版1018~1019行目ἢν καὶ πυλωρὸν ὀνομάζομενのἢνはἣνの誤植と思われる。